薬物乱用と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 16:11 UTC 版)
エヴァンスの薬物乱用は1950年代後半のマイルス・デイヴィスとの仕事の頃には既に問題となっていた。ヘロインのために体も蝕まれ、金銭的にも余裕はなかった。1963年、ヴィレッジ・ヴァンガードでの演奏の時、右手の神経にヘロインの注射を刺したことから右手がまったく使えず、左手一本で演奏をこなすという事件があった。これを機にヘロインをやめることになったとされるものの、一時的な断薬には成功しても、晩年まで薬物との縁は切れなかった。 エヴァンス本人のアルバムジャケットなどでは堅く口を結んだ肖像写真が多く使われたが、歯を見せなかったのは、喫煙と麻薬の影響でひどい虫歯になっていたのが一因である。兄ハリーとの音楽に関する1960年代の対談フィルム動画などでは、対話するエヴァンスの前歯がボロボロの状態であるのが伺える。 1970年代後半のエヴァンスは長年の麻薬常用の影響で、既に健康を大きく損なっていた。彼が1970年代前期以降の晩年、それまでのトレードマークであった堅苦しいヘアスタイルや黒縁眼鏡をやめ、長髪や口・顎の髭をたくわえ、スモーク入りの大きな眼鏡という派手なイメージチェンジを図った背景に、健康を損なったことによる顔面の顕著なむくみを、髪や髭で隠そうとする意図があったと中山康樹が指摘している。また1978年11月にビレッジ・バンガードでエヴァンス・トリオのライブを聴いた小川隆夫も「彼(エヴァンス)の体が異常にむくんでいることに気付いていた」と記述している。キーストン・コーナーライブ時点でも、演奏時以外での疲労困憊した様子や、通常ではピアノ演奏が不可能と思われるほどに指が腫れ上がる症状が見られた(残された映像や写真によって、60年代にすでにこの手の異常を確認できる)。エヴァンスの体調を危惧したマーク・ジョンソンやジョー・ラバーバラは、活動を一時休止してでも治療に専念することを懇請したが、彼はそれを拒んでピアノに向かうことを続けた。 1979年の『We Will Meet Again』は、ピアニストかつピアノ教師であった兄ハリーのための作品でもある。この年の録音の4ヶ月前にハリーは動機不詳の拳銃自殺を遂げている。 エヴァンスは、前述のキーストン・コーナーでのライヴに続き、1980年9月9日にニューヨーク市のライブハウス「ファッツ・チューズデイ」において同バンド出演初日演奏を行った。既に激しい体調不良に見舞われていたものの、ジョンソンやラバーバラによる演奏中止要請を振り切って演奏を続行した。しかし、同バンドの開催2日目にあたる9月11日、ついに演奏を続行できない状態となり、やむなく演奏を中止し自宅で親しい人達によって3日間にわたり看護された。9月14日に再度ラバーバラの説得により、市内のマウント・サイナイ病院に搬送されたが、翌9月15日の月曜日に死去した。51歳没。 死因は、肝硬変ならびに出血性潰瘍による失血性ショック死であった。永年の飲酒・薬物使用で、人体の薬物・異物分解処理を司る肝臓に過剰な負担をかけ続けた結末で、疫学的には周知されている結果であった。肝臓疾患はエヴァンス自身も自覚していた長年の持病と言うべきものであったが、ことに晩年の数年は必要な療養をとろうともせず、死の間際に至るまで頑なに治療を拒み続けた結果病状を悪化させ、死を早めたのだった。 自らが自殺の原因を作ったエレインと、兄弟・音楽の両面で絆の深かった兄ハリーの2人の自殺が、晩年のエヴァンスの破滅志向に影響を与えていたとする批評も見られるが、真相は定かでない。エヴァンスの死の直前に2度に渡り診察を行った医師ジェームス・ハルトは「自分がひどい病気であることを彼は知っていた。(中略)入院を勧めたが応じなかった。彼には生きる意思が全く無いように思えた」と証言している。ジャズ評論家で生前のエヴァンスと親しく、『ワルツ・フォー・デビー』『ターン・アウト・ザ・スターズ』の作詞者でもあったジーン・リースは、エヴァンスの最期について「彼の死は時間をかけた自殺というべきものであった」と述懐している。 マーク・ジョンソンによれば、「ファッツ・チューズデイ」で最後にエヴァンスが演奏した曲は、長年の愛奏曲の一つ「マイ・ロマンス」であったという。
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