若松孝二とともに
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「磯貝一 (照明技師)」の記事における「若松孝二とともに」の解説
独立系成人映画に転向した正確な時期は不明であるが、本人によれば、監督の若松孝二には、1963年(昭和38年)9月3日に公開された若松の監督デビュー作『甘い罠』以来、「ずっとついている」という。同作の撮影技師は記録映画出身の門口友也、若松の第2作『激しい女たち』、第3作『おいろけ作戦 プレイガール』では同じく秋山海蔵であったが、第4作『不倫のつぐない』からは、東宝の子会社である東京映画の撮影技師であった伊東英男と組むことになり、以降、多く伊東とのタッグが続いた。若松の助監督・脚本家を務め、自らの監督デビュー作『堕胎』(1966年)を伊東・磯貝の技術陣で固めた足立正生によれば、「呼吸も合っていて、チームワークは抜群によかった」と回想する。 若松の監督デビューの翌1964年(昭和39年)、磯貝は、かならずしも若松作品だけではなく、秋山海蔵と組んで『肉体の手形』(監督小林悟)、塩田繁太郎と組んで『女の秘境』(監督高城浩)、中山光と組んで『おんな』(監督伊豆肇)、勝目勝こと金井勝と組んで『腐肉の喘ぎ』(監督新藤孝衛)といった作品で照明を手がけた。1965年(昭和40年)の若松プロダクション設立に際して、同年6月に公開された第1作『壁の中の秘事』(監督若松孝二、主演可能かづ子)あるいは『情事の履歴書』(監督若松孝二、主演千草みどり)には参加できず、撮影技師は伊東英男であったが、照明技師は森久保雪一であった。同年12月に公開された『欲望の血がしたたる』以降は、コンスタントに参加するようになる。1968年(昭和43年)7月13日に結成された鈴木清順問題共闘会議には、若松プロダクションは「無心で参加する」と表明、若松孝二、大和屋竺、足立正生、沖島勲といった同社の作家陣に加え、撮影技師の伊東英男、助監督の秋山未知汚(現在の秋山道男)、製作主任の弥山政之とともに磯貝も署名し、運動に参加した。同会議の呼びかけ人であった松田政男は「若松プロは第三段階に突入」と評した。 1971年(昭和46年)には、勝新太郎の勝プロダクションに招かれ、同年3月6日に公開された一般映画『男一匹ガキ大将』(監督村野鐵太郎)で撮影技師の吉岡康弘(1934年 - 2002年)とタッグを組んだ。1980年(昭和55年)7月5日に公開された一般映画『戒厳令の夜』(監督山下耕作)では、ヴェテラン撮影技師の宮島義勇(1909年 - 1998年)に対するヴェテラン照明技師の岡本健一(1914年 - 2002年)の助手を務めている。若松孝二と組んだ最後の作品は、1982年(昭和57年)1月23日に公開された一般映画『水のないプール』であり、このときの撮影技師は袴一喜であった。この時期が結果的にこの技術者の最晩年に当たり、以降、梅沢薫の監督作を中心に撮影技師・志村敏雄とのタッグを組んで仕事をした。1983年(昭和53年)1月15日に発行された鈴木義昭の『ピンク映画水滸伝』には、若松プロダクションの最若手である磯村一路らと参加した座談会が収録されている。 1984年(昭和59年)6月末、死去した。満47歳没。野上正義は、「若松プロひとすじでガンバッて来た」という磯貝の「飲んだくれたあげくの激死だった」と評した。『キネマ旬報』1984年7月下旬号の「ピンク映画時評」では、磯貝の死に際し「ピンク映画の行く末を思わしむる、孤独なライトマンの死」と評し「心からの追悼の意」を表した。
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