経済と財政、移民の増加
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 16:14 UTC 版)
「ニコラス・アベジャネーダ」の記事における「経済と財政、移民の増加」の解説
「大不況 (1873年-1896年)」も参照 当時のアルゼンチンでは恒常的な財政赤字と公的債務の支払いが急務であった。よって1875年初頭に、工業製品の輸入関税を40%増加させる関税法が制定された。同年末には、政府の財政不振と世界市場での原材料価格の下落により、政府の財政危機が顕在化した。国民政府の資金需要の一部には国立銀行が使われたが、ブエノスアイレス地方銀行からの借り入れに頼らざるを得なかった。 最終的に6000人の公務員を解雇し、給与を15%削減するという、大規模な公共支出の削減を決定した。200万人の国民が飢えや渇きに耐えながら国の公約に応えんとしているというような演説が残っている。 ダルド・ロチャ(スペイン語版、英語版)、ミゲル・カネ(スペイン語版、英語版)、カルロス・ペレグリーニ、ビセンテ・フィデル・ロペス(スペイン語版、スペイン語版)などの自治主義者たちは、1875年の議会で行われた議論の中で、工業化を促進するための何らかの保護を提案し、国が第一次産業の物産の輸出と工業製品の輸入に依存しなくなるようにした。一時的にはマスコミの支持も得られたが、経済危機が徐々に収束していく中で、これらの提案は結局棚上げとなった。この解決策は、政府の緊縮財政によるものだけで、貿易赤字を逆転させたのはウールの価格上昇だった。 財政危機の終結が明らかになると、大統領は移民が農地を取得しやすくする移民・植民地化法(アベジャネーダ法)を提案し、それまで混沌としていた人々の流入を積極的に促進したのである。移民の数はさらに増え、サンタフェ、アントレ・リオス、コルドバなどの農業植民地や、ブエノスアイレスにも数人の移民が以前よりも多く定住した。ヨーロッパからの移民を奨励する考えを最も明確に提唱した人物であったアベジャネーダは、「アメリカでは、統治することは人口を増やすことである」という言葉を残した政治学者のフアン・バウティスタ・アルベルディ(スペイン語版)や、前任のサルミエントと同じ思想を持っていた。 1875年、ブエノスアイレスで最初の農村展示会が開かれた。これはアルゼンチン農村協会(スペイン語版)が主催するもので、現在まで毎年続けられている。 1876年12月、冷凍室を2つ備えた初の冷蔵船「ル・フリゴリフィーク(Le Frigorifique)」がアルゼンチンに到来した。これにより、アルゼンチンの輸出の見方が大きく変わり、家畜の価値が上がり、ヨーロッパへの冷凍肉の初出荷が可能となり、翌年には穀物の初輸出も実現した。1890年代以降、これらはアルゼンチンの輸出品の中で最も重要な2つの項目として徐々に成長していくことになる。このような農業の拡大の結果として、またその必要条件として、アベジャネーダ政権下では鉄道網の拡張が大きく促進され、その任期の終了時には2516kmに達し、6年間で89%の増加となった。サルミエント大統領時代に始まったサン・ミゲル・デ・トゥクマンへの支線が大統領自身の手で開通し、ブエノスアイレス州の2つの鉄道(西部鉄道と南部鉄道)も延長された。チリへの支線も延長され、サン・ルイスのビジャ・メルセデスまで達した。
※この「経済と財政、移民の増加」の解説は、「ニコラス・アベジャネーダ」の解説の一部です。
「経済と財政、移民の増加」を含む「ニコラス・アベジャネーダ」の記事については、「ニコラス・アベジャネーダ」の概要を参照ください。
- 経済と財政、移民の増加のページへのリンク