第4次防衛力整備計画
第4次防衛力整備計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/08 19:52 UTC 版)
「航空自衛隊の歴史」の記事における「第4次防衛力整備計画」の解説
4次防の下では近代化の推進、輸送能力の向上などが図られた。1972年5月15日沖縄返還により防空領域が拡大したため臨時那覇派遣隊が編成され、翌1973年に南西航空混成団が新編され領域防衛を担任する。 第一次オイルショックの発生により原油価格が高騰する。昭和48年度予算では航空自衛隊のジェット燃料代は約28万キロリットルで42億円でありこれは無事調達された。しかし、翌昭和49年度は約32万キロリットルに対して約90億円の費用が確保されたが、前年比で1リットルあたり2倍近くに暴騰している。さらに、航空自衛隊では燃料調達までのタイムラグへの対応や有事備蓄を確保する必要性から、年間予算で燃料代を消費し切るわけに訳にはいかなかった。結果、消費量を抑制しなければならず1971年までは戦闘機パイロットの年間平均飛行時間178時間が維持されていたが、翌年以降は漸減傾向に突入し1974年は160時間、1976年には150時間、そして1980年には140時間台まで減少している。これが160時間台まで回復するには1987年まで待たねばならなかった。これでもアメリカ空軍の約240時間やNATO諸国の平均約180時間には届かなかった。 1974年から第3次F-Xの選定が開始される。1975年6月、F-1支援戦闘機の初飛行が開始、1977年9月から部隊配備が開始され、後に装備化される80式空対艦誘導弾の組み合わせによりソ連軍上陸艦隊に対する対艦攻撃能力が飛躍的に向上する。 1976年9月6日、ベレンコ中尉亡命事件が発生する。ソ連防空軍のMiG-25戦闘機が突如進路変更し、領空侵犯に備えた千歳基地のF-4EJ戦闘機がスクランブル発進し接触を図ろうとした。しかし、F-4EJ戦闘機のレーダーの問題により対象を発見できずMiG25戦闘機は函館空港に強行着陸する。これにより現地周辺はソ連軍の奪還作戦に備えて厳戒態勢をとった。事態は米国の介入もあり武力攻撃を受ける事態には至らなかった。
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