第2代モンゴル帝国皇帝オゴデイの時代
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「モンゴル帝国」の記事における「第2代モンゴル帝国皇帝オゴデイの時代」の解説
チンギス・カンの死後、生前の勅令によってモンゴルの全千人隊のうち8割を占めるその直属軍は10万1000戸が四男のトルイが相続し、トルイは監国としてモンゴル皇帝である次期カアンの選出を差配する役割を与えられた。このとき軍才にすぐれた長兄のジョチは既に亡く、財産の多寡でいえばトルイが圧倒的に有利であったが、次兄チャガタイら有力者たちは、兄弟のいずれとも仲がよく、そのためチンギス・カンが生前に後継者とすることを望んでいた三兄オゴデイを推した。こうしてオゴデイが即位し、トルイは帝国の分裂を防ぐために中央軍の指揮権を新モンゴル皇帝(カアン)に譲ったと言われている。 父の死から2年後の1229年に即位したオゴデイは、トルイと協力して金朝との最終戦争(モンゴルの金朝征服(英語版))にあたり、1232年に金朝を完全に滅ぼした。トルイは金朝との遠征からの帰路に病没するが、これによってチャガタイの強い支持を受けたオゴデイは皇帝としての地位を固め、1234年に自らの主導するクリルタイを開いてモンゴル高原の中央部に首都カラコルムを建設させた。 これ以降、オゴデイはカラコルム周辺の草原に留まり、遠征は皇帝ではなく配下の軍隊に委ねられる。近年の研究によると、トルイのウルスはカラコルムの北西方向を中心に存在し、トルイが統帥していた10万戸以上の軍団も、オゴデイの政策によって金朝への遠征などを通じて中軍・左翼軍団へ分散され、オゴデイを含む王族直属としてはなおも最大であったものの結局トルイ麾下の軍団は2万戸余りにまで縮小されてしまったようである(宇野伸浩らの研究による)。 オゴデイの治世にはカラコルムを中心として行政機構が整備され、チンカイ、マフムード・ヤラワチ、耶律楚材ら様々な民族出身の書記官(ビチクチ)たちによる文書行政が行われた。中国や中央アジアでは戸口調査が行われ、遊牧民には家畜100に対して1が、農耕民には10の収穫に対して1が税となる十分の一税制が帝国全土に適用された。帝国の主要幹線路には一定距離ごとにジャムチ(駅伝)が置かれ、モンゴル皇帝(カアン)の発給した許可状(パイザ)をもった使者や旅行者、商人は帝国内を自由に行き来することができるようにされた。 また、オゴデイは即位以前の1228年に、ホラズム・シャー朝のジャラールッディーンがインドからイラン高原に帰還したとの情報を受け、監国となっていたトルイとともに協議し、イラン方面へチョルマグンを司令とするタンマチ(鎮戍軍)(タマ軍/lashkar-i Tamāとも)の派遣に合意している。1229年にオゴデイは第2代モンゴル皇帝となると、改めてチョルマグンに4つの万戸隊を授け、ジャラールッディーン討伐のためにチョルマグン率いる鎮戍軍にアムダリヤ川を渡河させてイラン入りさせている。ジャラールッディーンはイラン高原に戻ったもののイラン西部の諸勢力との紛争の末孤立し、1231年、チョルマグン率いるイラン鎮戍軍はジャラールッディーンの軍勢を急襲してこれを撃破した。ジャラールッディーンは逃亡中にクルド人兵士によって殺害され、ホラズム・シャー朝は完全に滅亡した。モンゴル帝国のイラン鎮戍軍はイラン高原西部の諸政権やアッバース朝カリフとも衝突を繰り返し、アゼルバイジャンのイルデニズ朝を滅ぼすなどしたものの、これらの地域からの支配権の承認は得られず、イラン高原の完全制圧をすることはできなかった。オゴデイの治世にはこれ以外にも高麗の征服を開始し(→モンゴルの高麗侵攻)、インドなどにも遠征軍が派遣され、モンゴル帝国は膨脹を続けた。 1235年、建設間もないカラコルムで開かれたクリルタイでは、中国の南宋と、アジア北西のキプチャク草原およびその先に広がるヨーロッパに対する二大遠征軍の派遣を決定した。 南宋に対する遠征は司令官とされたオゴデイの皇子クチュの急死により失敗したが、ジョチの次男バトゥを司令官とするヨーロッパ遠征軍はヴォルガ・ブルガール侵攻やルーシ侵攻を敢行してロシアまでの全ての遊牧民の世界を征服し、遠くポーランド(モンゴルのポーランド侵攻)、ハンガリー(モヒの戦い)など中央ヨーロッパまで席捲した。 1241年4月9日、モンゴルのポーランド侵攻を食い止めるべく、ポーランド王国、神聖ローマ帝国、そしてテンプル騎士団やドイツ騎士団、聖ヨハネ騎士団などのヨーロッパ連合軍はポーランドのレグニツァ近郊に2万の兵を集結させたが、バイダルが率いるモンゴル軍の支隊に手も足もでなかった。これが後年ヨーロッパで恐れられ語り継がれていくワールシュタットの戦い(レグニツァの戦い)である。その後、モンゴル軍はハンガリー領モラヴィア(現:チェコ東部)地方に移動した後、オーストリア公国領ウィーナーノイシュタットを攻めるが、1242年にオゴデイの崩御に伴ってモンゴルへ帰還した。
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