第2代モンゴル帝国皇帝オゴデイの時代とは? わかりやすく解説

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第2代モンゴル帝国皇帝オゴデイの時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:51 UTC 版)

モンゴル帝国」の記事における「第2代モンゴル帝国皇帝オゴデイの時代」の解説

チンギス・カン死後生前勅令によってモンゴルの全千人隊のうち8割を占めるその直属軍は10万1000戸が四男のトルイ相続しトルイ監国としてモンゴル皇帝である次期カアン選出差配する役割与えられた。このとき軍才にすぐれた長兄ジョチは既に亡く財産多寡でいえばトルイ圧倒的に有利であったが、次兄チャガタイ有力者たちは、兄弟のいずれとも仲がよく、そのためチンギス・カン生前後継者とすることを望んでいた三兄オゴデイ推した。こうしてオゴデイ即位しトルイ帝国の分裂を防ぐために中央軍指揮権を新モンゴル皇帝カアン)に譲ったと言われている。 父の死から2年後1229年即位したオゴデイは、トルイ協力して金朝との最終戦争モンゴル金朝征服英語版))にあたり1232年金朝を完全に滅ぼしたトルイ金朝との遠征からの帰路病没するが、これによってチャガタイの強い支持受けたオゴデイ皇帝として地位固め1234年に自らの主導するクリルタイ開いてモンゴル高原中央部首都カラコルム建設させた。 これ以降オゴデイカラコルム周辺草原留まり遠征皇帝ではなく配下軍隊委ねられる近年の研究によると、トルイウルスカラコルム北西方向を中心に存在しトルイ統帥していた10万戸以上の軍団も、オゴデイ政策によって金朝への遠征などを通じて中軍左翼軍団分散されオゴデイを含む王族直属としてはなおも最大であったものの結局トルイ麾下軍団2万余りにまで縮小されてしまったようである(宇野伸浩らの研究による)。 オゴデイの治世にはカラコルム中心として行政機構整備されチンカイマフムード・ヤラワチ耶律楚材様々な民族出身書記官ビチクチ)たちによる文書行政が行われた。中国中央アジアでは戸口調査が行われ、遊牧民には家畜100に対して1が、農耕民には10収穫に対して1が税となる十分の一税制が帝国全土適用された。帝国主要幹線路には一定距離ごとにジャムチ駅伝)が置かれモンゴル皇帝カアン)の発給した許可状(パイザ)をもった使者旅行者商人帝国内を自由に行き来することができるようにされた。 また、オゴデイ即位以前1228年に、ホラズム・シャー朝ジャラールッディーンインドからイラン高原帰還したとの情報を受け、監国となっていたトルイとともに協議しイラン方面チョルマグン司令とするタンマチ(鎮戍軍)(タマ軍/lashkar-i Tamāとも)の派遣合意している。1229年オゴデイ第2代モンゴル皇帝となると改めチョルマグン4つ万戸隊を授けジャラールッディーン討伐のためにチョルマグン率いる鎮戍軍にアムダリヤ川渡河させてイラン入りさせている。ジャラールッディーンイラン高原戻ったもののイラン西部諸勢力との紛争の末孤立し1231年チョルマグン率いイラン鎮戍軍はジャラールッディーン軍勢急襲してこれを撃破したジャラールッディーン逃亡中にクルド人兵士によって殺害されホラズム・シャー朝は完全に滅亡したモンゴル帝国イラン鎮戍軍はイラン高原西部諸政アッバース朝カリフとも衝突繰り返しアゼルバイジャンイルデニズ朝を滅ぼすなどしたものの、これらの地域からの支配権承認得られず、イラン高原の完全制圧をすることはできなかった。オゴデイの治世にはこれ以外にも高麗征服開始し(→モンゴルの高麗侵攻)、インドなどにも遠征軍派遣されモンゴル帝国膨脹続けた1235年建設間もないカラコルム開かれたクリルタイでは、中国南宋と、アジア北西キプチャク草原およびその先広がるヨーロッパ対する二大遠征軍派遣決定した南宋対す遠征司令官とされたオゴデイ皇子クチュ急死により失敗したが、ジョチ次男バトゥ司令官とするヨーロッパ遠征軍はヴォルガ・ブルガール侵攻ルーシ侵攻敢行してロシアまでの全ての遊牧民世界征服し遠くポーランドモンゴルのポーランド侵攻)、ハンガリーモヒの戦い)など中央ヨーロッパまで席捲した。 1241年4月9日モンゴルのポーランド侵攻食い止めるべく、ポーランド王国神聖ローマ帝国、そしてテンプル騎士団ドイツ騎士団聖ヨハネ騎士団などのヨーロッパ連合軍はポーランドレグニツァ近郊2万の兵を集結させたが、バイダル率いモンゴル軍支隊手も足もでなかった。これが後年ヨーロッパで恐れられ語り継がれていくワールシュタットの戦いレグニツァの戦い)である。その後モンゴル軍ハンガリーモラヴィア(現:チェコ東部地方移動した後、オーストリア公国ウィーナーノイシュタット攻めるが、1242年オゴデイ崩御伴ってモンゴル帰還した

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