チャガタイとは? わかりやすく解説

チャガタイ【Chaghatai】

読み方:ちゃがたい

[?〜1242チャガタイ‐ハン国創始者在位1227〜1242チンギス=ハン第2子で、父の金征討大西征に従軍。弟のオゴタイモンゴル帝国帝位につけ、長老としてその政治補佐。自らはイリ地方領有した


チャガタイ

名前 Chaghatai

チャガタイ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/11 21:31 UTC 版)

チャガタイČaγatai / Ča'adai, 1178年/1185年/1186年? - 1242年)は、モンゴル帝国の皇族の一人で、チンギス・カンの次男。ジョチの弟、オゴデイトルイの兄に当たる。ペルシア語表記では چغتاى خان (Chaghatāī khān) と綴る。チャアダイ[1]チャプタイとも。


  1. ^ 村上1976
  2. ^ 村上1976,194-196頁
  3. ^ 杉山2004,50-51/53頁
  4. ^ 村上1976,106-107頁
  5. ^ ドーソン1968,140頁
  6. ^ ドーソン1968,140-141頁
  7. ^ 宇野2012,183-184頁
  8. ^ サルバンは一般にチャガタイの第4子で弟にイェス・モンケとバイダルがいたと記されるが、別の箇所ではイェス・モンケが第3子であったとも記している。これも庶出の子(モチ・イェベ、サルバン)を外して嫡子のみを数えた場合、イェス・モンケが第3子になるため生じた混乱であると考えられている(宇野2012, 176頁)
  9. ^ 『集史』には「初版系」の写本テキストと「増補版系」の写本テキストがあるが、前者ではカダカイとバイジュをチャガタイの息子とするが、後者は息子と扱わない。これは、「増補版」の編者がチャガタイの息子について正確な情報を得て修正を施した結果であると見られる(川本2017,83-87頁)
  10. ^ モエトゥケンには、バイジュ、ブリ、イエスン・トゥア、カラ・フレグという4人の息子がいたことが知られている。うち、ブリはバトゥの東欧遠征に従軍したがグユクとともにバトゥと諍いを起こし、これが原因でモンケが即位した時、反乱を企てたとして処刑されている。モエトゥケンはチンギス・カンのホラズム・シャー朝遠征に加わったが、バーミヤーンを包囲中に流れ矢を受けて戦死した。このため、チャガタイは後継者をモエトゥケンの四男だったカラ・フレグを選んだ。
  11. ^ 母は名前不詳。イェスルン・ハトゥンに仕えた下女であったという。
  12. ^ モエトゥケンが亡くなった時、チャガタイはこのベルゲシを後継者にしたが、ベルゲシも13歳で亡くなったため子孫がいなかった。
  13. ^ 第5代当主アルグの父で大元ウルスチュベイ王家の父祖。ジョチ家のバトゥの東欧遠征に従軍した。
  14. ^ 巴森:再现成吉思汗风采(组图) 新浪网 (中国語)
  15. ^ 北方新闻网 中国蒙古学信息网 (中国語)


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