中央アジア進出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 07:54 UTC 版)
「バラク (チャガタイ家)」の記事における「中央アジア進出」の解説
バラクはイリ渓谷に入るとムバーラク・シャーからチャガタイ家当主の座を奪ったが、自らチャガタイ・ウルスの支配を確立すると、クビライの傀儡となることを嫌ってカアンに反抗した。バラクは本来カアンの所領であるがクビライ即位前後の混乱によって帰属が曖昧になっていた中央アジアのオアシス地帯を支配下に置くため、マー・ワラー・アンナフルに兵を送ったが、その支配権を巡って同じくクビライに反旗を翻していたオゴデイ家のカイドゥと対立した。 結局1269年の春になってバラクとカイドゥは和議を結び、ジョチ家の当主モンケ・テムルを交えて三者でタラス川の河畔で会盟を行い、チャガタイ家がマー・ワラー・アンナフルの3分の2を領有し、残りをオゴデイ家とジョチ家が分割することを約した。なお、旧来はこの会盟でジョチ家とチャガタイ家がオゴデイ家のカイドゥを三者共同のハーンに擁立し、クビライのカアン位を否定したとされるが、現在では疑問が呈されている。特にモンケ・テムルらジョチ・ウルスの王族たちは、モンケ没後の後継者争いにはクビライ、アリクブケ両陣営に対して基本的に中立的立場をとっており、クビライに敵対的であったかは説が分かれる。また、このタラス会盟もバラクがチャガタイ家の当主位を奪ったことに警戒してマー・ワラー・アンナフルにおけるジョチ家の食邑の保持と、ウルスの東部境域の安定化を狙う意味合いが強かったものと現在では考えられている。カイドゥやバラクも、それぞれ中央アジアにおけるオゴデイ家、チャガタイ家の権益の確保に腐心しているが、クビライに代わるカアンを別に擁立する意図があったかは大いに疑わしい。
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