第二次玄作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/30 07:51 UTC 版)
1945年初頭、第二次玄作戦が開始された。金剛隊が編成され、ウルシー、コッソル、グアム、ホランジア、アドミラルティ各地へ向けて回天攻撃を実行した。戦果はウルシーで歩兵揚陸艇LCI-600撃沈、弾薬輸送艦マザマ大破。コッソルで戦車揚陸艦LST225小破。ホランジアで輸送艦ポンタス・ロス小破。
※この「第二次玄作戦」の解説は、「玄作戦」の解説の一部です。
「第二次玄作戦」を含む「玄作戦」の記事については、「玄作戦」の概要を参照ください。
第二次玄作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 04:30 UTC 版)
第一次回天特攻作戦(玄作戦・菊水隊)では、伊37を喪失し、伊36は機械故障で回天1基しか発進できなかった。戦果報告により回天作戦は成功したと判定され、日本海軍は第二次作戦を実施することになった(12月8日、機密GF命令作第五号)。アメリカ海軍が「回天」への対策を実施する前に、各方面への作戦を実施することにしたのである。12月8日、連合艦隊はGF命令作特第二号により、第二次玄作戦の実施要領を伝達した。 12月19日に実施命令が下った第二次玄作戦(12月19日、GF電令作第448号)金剛隊の編成は、潜水艦6隻(伊36、伊47、伊48、伊56、伊53、伊58)で、伊47はニューギニア島北部のホーランディア攻撃を命じられた。12月25日、伊47は第二次玄作戦・金剛隊として大津島を出撃した。12月30日、グアム島西方約540kmを航行中に海軍関係者8名がのった筏を発見し、救助した。グアム島攻防戦で日本軍守備隊が玉砕したあと8名はジャングルに隠れていたが、ドラム缶で筏をつくりグアム島から脱出した。母艦ごと沈む可能性の高い任務であり、折田達は食糧と水を与えるだけのつもりだったが、回天隊の川久保中尉が「我々4人は数日確実に死ぬから、かわりに8人を救助してくれ。」と頼み、伊47は漂流者を救助したという。 1945年(昭和20年)1月12日0100、ホーランディア付近で村松実上等兵曹、佐藤勝美一等兵曹が甲板上から回天に乗り込み、伊47は潜航した。0230、川久保輝夫中尉(海兵72期)、原敦郎少尉が交通筒から回天に乗り込んだ。0316から0326の間に回天を全て発進した。その後、浮上して退避に移った。午前4時55分、折田艦長はフンボルト湾で燈色の爆発光を認めた。0515、米リバティ船ポンタス・H・ロス(Pontus H. Ross、7,176トン)の左舷3番船倉に突然魚雷が命中した。しかし、直径22cmほどの凹みができただけで、魚雷は海面上を滑って離れ、ポンタス・H・ロスの側面を回って船首前方右舷寄りに90m離れてから大爆発した。爆発は激しかったが、船体の損傷は軽微であった。 1月15日、及川総長は天皇に伊47の戦果について奏上した。沈没した伊48を除く金剛隊各艦は、1月下旬から2月初旬にかけて呉に帰投した。伊47の戦果認定は大型輸送船4隻轟沈であった。戦後、折田艦長はアメリカ海軍関係者から当時の状況を教えられたが、アメリカ側の被害秘匿を疑っている。2月11日、連合艦隊は金剛隊について戦果を告示した。
※この「第二次玄作戦」の解説は、「伊号第四十七潜水艦」の解説の一部です。
「第二次玄作戦」を含む「伊号第四十七潜水艦」の記事については、「伊号第四十七潜水艦」の概要を参照ください。
- 第二次玄作戦のページへのリンク