移民ブームへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/27 01:43 UTC 版)
1895年(明治28年)にサンフランシスコに上陸した里き一行は、同地の中華街(Chinatown, San Francisco)で店を開き、水槽の中で海女の実演を行った。アメリカ社会では女性の権利が強く、海女のショーは女性酷使であると非難を浴び、取りやめざるを得なくなった。その後、横浜時代にアメリカ人が日本画に興味があることを知っていた里きは、急場しのぎとしていとこ・伊藤くにゑの描いた日本画を売り始めた。くにゑの絵画は予想外の高値で売れ、予約も出るほどであった。そこで里きは催促の手紙と売上の一部をくにゑに送り、くにゑはそれを励みに創作意欲を高めた。 それから7人は男性陣と女性陣に分かれ、男性陣はサンフランシスコで、女性陣はサンタバーバラに移ってそれぞれ白人家庭で働き始めた。サンタバーバラへ移ったのは、当時サンタバーバラ郡で農業を営む日本人が多かったからである。各人は労働で得られた収入をそれぞれ片田村に送金し始め、平均して1人年間300円に上った。この金額は、当時玄米が1俵3円であったことから、「20歳前後の若者がこれほど稼げるとは、アメリカには金のなる木でもあるのだろうか」と村人を大いに驚かせることになった。 これをきっかけに片田村では、里きを頼ってアメリカへ移住する者が急増し、片田村は「アメリカ村」(三重のアメリカ村、志摩のアメリカ村とも)と呼ばれるようになった。この動きは国策によって移住した北勢(三重県北部)の移民とは異なる潮流であり、移民斡旋業者にも頼らない、他の都道府県には見られない特異な現象であった。その中の一人に1900年(明治33年)にアメリカに渡った竹内乙蔵がおり、1909年(明治42年)4月10日に発足した南加三重県人会(なんかみえけんじんかい、英語: Nanka Mie Kenjinkai of Southern California )の発起人となった。 片田村からの移民が片田郵便局に送金した額は、明治時代末期から大正時代初期にかけて、当時の片田村の予算の3倍に達したという。また片田村出身のアメリカ移住者(日系二世を含む)は、1942年(昭和17年)の調査では232人で、片田村(当時の人口は約4,000人)の20人に1人が渡米している計算になる。移民らはアメリカに移った後も故郷の片田村を気にかけ、1903年(明治36年)に八雲神社の鳥居・石垣の建立代として、里きが8円、里きに伴われて渡った7人のうちの1人である脇田きぬが5円を寄付している。
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