神戸居留地
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神戸居留地(こうべきょりゅうち)
- 1 神戸居留地とは
- 2 神戸居留地の概要
神戸居留地
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詳細は「神戸外国人居留地」を参照 江戸幕府は、天皇の居住する京都に近い畿内は攘夷気分が強く情勢不穏であるとして、兵庫開港を延ばしに延ばしていた。このため、神戸港は条約締結から10年を経過した1868年1月1日に開港した。 日本人と外国人の紛争を避けるため、開港場や外国人居留地は当時の兵庫市街地から3.5kmも東に離れた神戸村に造成された。東西を川に挟まれた土地で、外国人を隔離するという幕府の目的に適う地勢であった。生田神社の門前に小さな集落があったものの、兵庫より格段に小規模だった。ここにイギリス人土木技師J.W.ハートが居留地の設計を行い、格子状街路、街路樹、公園、街灯、下水道などを整備、126区画の敷地割りが行われ、同年7月24日に外国人に対して最初の敷地競売が実施された。全区画が外国人所有の治外法権の土地であり、日本人の立入が厳しく制限された事実上の租界である。この東洋における最も美しい居留地とされた整然たる区画街路は往時のまま現存する。神戸居留地では外国人の自治組織である居留地会議がよく機能し、独自の警察隊もあった。競馬場については、1868年に居留地の北の生田神社の東に開設されたものの数年で廃止されている。 長崎・横浜においては1870年代に日本側の行政権が回復していたが、神戸において日本側の行政権が回復したのは各地の外国人居留地が日本に一斉に返還された時と同じく、不平等条約改正後の明治32年(1899年)であった。 神戸市街地は第二次世界大戦中の1945年に神戸大空襲を受けた影響で、現在の神戸市役所西側一帯にあった居留地時代(1899年以前)の建物で残っているのは旧居留地十五番館(旧アメリカ合衆国領事館、国の重要文化財)が唯一で、多く残る近代ビル建築は主に大正時代のものである。ただ、居留地が手狭になったため、1880年頃から六甲山麓の重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)である北野町山本通付近に多くの外国人住宅が建てられ、戦災を免れた。これが今日の神戸異人館である。
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