発生と変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 02:48 UTC 版)
初代の相馬師常は、鎌倉時代初期の武将千葉常胤の次男である。師常が父常胤より相馬郡相馬御厨(現在の千葉県北西部で、松戸から我孫子にかけての一帯)を相続されたことに始まる。 師常は常胤の子でありながら、「胤」の字を継承していない。伝承によると師常は平将門の子孫である信田師国の養子で、将門に縁の深い相馬御厨を継承させたとする。しかし、将門の本拠地はもっと北の岩井で、支配圏は豊田郡・猿島郡であり、相馬郡はその周縁部でしかない。相馬氏による相馬郡支配の正当化を図るためのこじつけとする見方もある[要出典]。 相馬御厨は、平忠常以来の房総平氏の代々の土地だった。上総氏の祖である常晴が相馬五郎と号し既に相馬氏を称していた。常晴の子・常澄(父親と折り合いが悪く家督は継がなかった)は相馬六郎と号した。また常澄の子常清も相馬氏を称していた。上総広常の失脚と共に、千葉氏の師常が相馬御厨の地に据え、それにちなんで相馬氏を称したらしい[要出典]。なお、常清の系統は姓を相馬氏から角田氏に改めている。 師常の子孫は相馬御厨を中心として活動していたが、4代胤村の死後、先妻の子・胤氏と後を託した後妻の子・師胤(5代)が家督を争った。師胤は父の譲状を鎌倉幕府に提出したが、鎌倉幕府はこれを認めず、胤氏を継承者として認めた。このため、師胤の子・重胤(6代)の代に横領の恐れが高まったとして、源頼朝により所領として許されていた陸奥国行方郡に入った。なお、胤氏一族は下総に残留して下総相馬氏となる。 南北朝時代には、陸奥相馬氏(中村相馬氏)は北朝にくみし、下総相馬氏(流山相馬氏)は南朝に属した。また、天正18年(1590年)の豊臣政権による小田原征伐でも、地政学上は敵対関係とされ、陸奥相馬氏は大名として残ったのに対して、下総相馬氏は小禄の旗本として衰退したといわれる[要出典]。両相馬氏が正式に和解したのは、江戸時代の18世紀に入ってからとされている[要出典]。 下総(流山)や陸奥(中村)の他にも、分家、諸族は日本全土に拡散しており、彦根藩に仕えた一族の末裔からは相馬永胤を出している。
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