発生とその波及
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 06:14 UTC 版)
羨道は、歴史的には、横穴系の埋葬施設の一部分として登場しており、その起源は横穴系埋葬施設の登場に求められる。 4世紀末葉ころ、北部九州の玄界灘沿岸地域で構築された横穴式石室が日本列島における横穴系埋葬施設の初見である。この石室の採用は朝鮮半島との交流の影響によるものとみられるが、当初の半世紀のあいだは分布域が玄界灘周辺の地域に限られ、他地域へ波及することはほとんどみられなかった。 5世紀中葉には、現在の熊本県地方に「肥後型石室」と称される横穴式石室が登場し、5世紀後半には数種の横穴式石室が九州地方の北部から中部の地域にかけての墓制の主流を占めるようになり、同時に、この形態の影響によりさまざまな墓制も生まれて横穴系埋葬施設における基本的な形態が出そろった。5世紀後半にはまた、東は若狭(福井県西部)や三河(愛知県東部)のあたりまで少数ながら横穴式石室が構築されるようになった。 6世紀にはいると、近畿地方を中心に「畿内型石室」と称される新型式の石室が営まれるようになり、これを契機に北は東北地方北部から南は九州地方南部にいたるまで横穴系埋葬施設が普及することとなった。
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