甲府滞在中の広重
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 15:15 UTC 版)
「日々の記」に拠れば、甲府滞在中に広重は甲府道祖神祭の幕絵製作のほか、依頼された屏風絵(びょうぶえ)や襖絵(ふすまえ)、鍾馗図(しょうきず)など肉筆画の制作も行っている。1945年7月6日-翌7日の甲府空襲で市街地の大半は焼失し、幕絵をはじめ広重が甲府滞在中に制作した作品は多くが焼失しているが、道祖神幕絵1点と甲府商家大木家伝来の作品群が現存している。 大木家は甲府横近習町(甲府市中央二丁目)に本拠を構えた商家で、歴代当主が蒐集した江戸初期から明治に至る美術品は大木家資料(大木コレクション)と通称されている。現在は明治以降の美術資料が山梨県立美術館に、広重作品をはじめとする明治以前の美術資料・歴史資料・民俗資料が山梨県立博物館に寄託されている。 「甲州日記」には広重が大木家を訪れた記述はないが、大木家資料には広重が五代目当主夫妻を描いた大木喜右衛門夫妻像(山梨県指定文化財)や「鴻ノ台図屏風」など広重作品が含まれていることから、大木家を訪れていたと考えられている。 また、広重は甲府滞在中に甲府町人からの歓待を受け、連日の宴会や芝居見物、御幸祭見物、狂歌会などを行っている。広重の狂歌は『歌川広重の甲州日記と甲府道祖神祭』p.95で集成されており、四谷新町から笹子峠までの「日々の記」では6首が詠まれている。甲府滞在中の「心おほえ」では夢山や座頭転ばしを訪れ、5首を詠んでいる。 飲食は昼食、夕食、軽食、馳走、酒盛などで、甲州道中の旅を記した「日々の記」では茶屋や宿場で山菜料理や川魚料理、酒などを食し、一日の食事回数は4、5回に及ぶ。甲府城下で広重が滞在した緑町は劇場である亀屋座や名所である一蓮寺が所在し、料理屋の多い地域であった。広重は連日、甲府町人に接待され寿司やうなぎ、そばなどを食している。特に内陸部である甲斐国において寿司を食している点が注目されている。 御幸祭(おみゆきまつり)は信玄堤の所在する竜王(甲斐市竜王)で行われる川除祭礼。甲斐国一宮・二宮・三宮合同で行われ、仮装した大名行列が神輿を担ぎ、竜王の信玄堤まで練り歩く。毎年4月と11月の亥の日(いのひ)にそれぞれ「春御幸」「冬御幸」が実施され、江戸時代には途中に甲府・一蓮寺で甲府勤番にお目見えする儀式が恒例となっていた。「日々の記」4月15日条に拠れば、広重が実見したのは春御幸で、広重はこの日体調が優れず、魚町三丁目(甲府市中央)の書肆(しょし)・村田屋幸兵衛の招きで一蓮寺で春御幸を見たと考えられている。 なお、「心おほへ」には信玄堤も所在する釜無川を描いたスケッチがある。同図は前後に身延道・飯富宿の「屏風岩」、「早川」の順に掲載されていることから現在の身延町付近を描いた図とされるが、川岸には護岸施設である蛇籠(じゃかご)や聖牛が描かれ、「釜無川」の呼称は信玄堤の所在する上流を意味することから、現在の甲斐市竜王付近を描いた図とする説もある。また、「日々の記」には御幸祭のスケッチも存在したという。
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