玉船団(第2次輸送部隊)
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「多号作戦」の記事における「玉船団(第2次輸送部隊)」の解説
第1船団:能登丸(7,191トン)・香椎丸(8,407トン)・金華丸(9,305トン)・高津丸(陸軍特殊船、5,350トン) 護衛部隊:沖縄・占守・海防艦11号・同13号 警戒部隊:霞・沖波・曙・潮・初春・初霜 日本陸軍のレイテ輸送作戦はなかなか決まらず、第一師団・第二十六師団のレイテ派遣と第三十五軍司令官指揮下編入、第一師団のレイテ突入先頭決定とマニラ到着は、いずれも10月27日であった。第1師団(通称号「玉」)は輸送船4隻(能登丸・香椎丸・金華丸・高津丸)に分乗し、特設護衛船団司令官・松山光治少将指揮下の海防艦4隻(占守・沖縄・11号・13号)に護衛されて到着した。第2次多号作戦は、この輸送船4隻(第1師団、通称号「玉」より玉船団と呼称)をマニラからオルモックに輸送する作戦である。日本陸軍航空隊(第四航空軍、司令官:富永恭次陸軍中将)は船団直掩を担当、海軍航空隊は泊地掩護・魚雷艇掃蕩・間接護衛を担当する。この第二次輸送作戦に、日本軍(大本営陸軍部および海軍部、現地軍)は絶大の期待を寄せていた。 10月29日にマニラを出発予定だったが、アメリカ軍機動部隊艦載機の攻撃を受けて第二遊撃部隊の旗艦那智が損傷した。 10月30日の出発予定も、諸事情により延期された。第1師団は海難事故にそなえて軍旗3旗を上海にのこしており、第四航空軍の第七輸送飛行隊で軍旗をマニラへ空輸した(11月2日着)。連合軍はB-24重爆で日本軍拠点を空襲しつつ、レイテ島の飛行場整備を進めていた。 10月31日、及川古志郎軍令部総長は昭和天皇に第一師団輸送計画について奏上する。連合軍の戦闘機・魚雷艇・水上艦艇出現の徴候に対し、第二遊撃部隊だけでなく甲標的や水上機部隊も投入して作戦を支援すると述べ、「各種ノ手段ヲ尽シテ本作戦ノ成功ヲ期シテ居リマス」と結んでいる。同日8時0分、玉船団(第二次輸送部隊)はマニラを出港。陸軍徴用の優速船4隻(能登丸・香椎丸・金華丸・高津丸)を、第一水雷戦隊司令官木村昌福少将指揮下の警戒部隊6隻(旗艦霞・第7駆逐隊〈曙・潮〉・第21駆逐隊〈初春・初霜〉・第31駆逐隊〈沖波〉)、第七護衛船団司令官松山光治少将指揮下の護衛部隊4隻(沖縄・占守・第11号・第13号海防艦)が護衛する。また第4船団の輸送艦3隻も同時にマニラを出撃した。 玉船団は日本陸軍機(一式戦闘機・三式戦闘機・四式戦闘機)に掩護されて進撃。11月1日、空襲にあったが被害無く、18時30分オルモックに到着、19時0分より揚陸を開始した。富永は、第4航空軍司令拝命時に陸軍中央から期待されていたとおり、地上軍との連携を重視しており、輸送船団の護衛任務にできうる限りの戦闘機を投入していた。富永は船団護衛と同時に、アメリカ軍機による空襲をけん制するため、一式戦闘機と九九式双発軽爆撃機に「タ弾」を装備させて、レイテ島内のアメリカ軍飛行場を爆撃させ、地上で相当数の航空機を撃破した。船団護衛は戦闘機隊が定期的に交代しつつ、常に十数機が船団上空に張り付いているといった手厚いもので、途中で「B-24」や「P-38」の来襲があったが、護衛戦闘機がその都度数機を撃墜して撃退している。 同日の日没は18時13分、月齢は14.9。潮汐の干満差が大きく、揚陸には約24時間かかる見通しだった。翌11月2日は快晴で、朝から連合軍機の連続空襲を受ける。味方戦闘機(零式艦上戦闘機・四式戦闘機)の護衛もあり被害は無かった。正午頃より来襲機数が増え、直衛戦闘機隊はP-38に妨害されてB-24の爆撃を阻止できなくなった。13時5分、B-24型重爆24機などの攻撃を受けた。駆逐艦が展開した煙幕からはずれた能登丸は、爆撃を受け沈没した。ただし能登丸は馬32頭と若干の弾薬をのぞく90%の揚陸を終わっており、他の船も最終的に金華丸97.5%、香椎丸・高津丸は100%の揚荷率をあげ、輸送作戦はほぼ成功した。 帰路、3隻(第9号輸送艦・初春・初霜)は第131号輸送艦救援のため分離した。11月4日、部隊はマニラに帰投した。日本陸軍機の総出動機数142、未帰還2、大破1、撃墜8、撃破2、飛行場炎上5ヶ所(レイテ島タクロバン飛行場襲撃を含む)と記録されている。 第一師団は11月4日にリモン峠においてオルモックへ南下するアメリカ陸軍の第24師団と遭遇し、12月末まで激戦を繰り広げた。
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