比島(フィリピン)防衛の作戦要綱とその矛盾点
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「レイテ島の戦い」の記事における「比島(フィリピン)防衛の作戦要綱とその矛盾点」の解説
第14方面軍司令官山下大将が、大本営から指示された比島防衛の作戦要綱は次のとおりである。 第14方面軍司令官は、南方軍司令官に隷し全比島の防衛に任じる。このため、米軍の比島侵攻には、まず南部比島に予想し、この際には海軍、空軍をもって決戦とする。次に米軍がルソンに来攻する場合は、陸軍をもって決戦する。 全比島の治安維持に関し、必要に応じ、比島政府に協力する。但し比島政府との交渉は、南方軍司令官及び大本営もこれに当る。 問題は1である。 はじめの一文に、第14方面軍司令官は全比島の防衛に任じると書かれてあるが、実際は違っていた。それは日本軍の指揮系統の統一が図られていなかったからである。陸軍と海軍とが完全に独立していたことはいうまでもなく、同じ陸軍内でも第14方面軍の上部機関である南方軍がマニラにあり、方面軍司令官は、第4航空軍司令官、第3船舶司令官と同じ立場にあって、南方軍総司令官寺内寿一元帥の隷下にあった。つまり、第14方面軍司令官はフィリピン全島の防衛という任務にもかかわらず、フィリピンに所在する同じ陸軍航空や船舶部隊すらも指揮できなかったのである。作戦考案一つにとっても、海軍司令長官、航空軍司令官、船舶司令官と協議してその賛同を求め、そのあとで上司の寺内元帥の許可を得なければならなかった。 次に米軍がルソンに来攻する場合は、陸軍をもって決戦するという一文である。もともとフィリピンは島国のためにアメリカ軍がどこから侵攻するのか、判断が難しい地域であった。この点についてフィリピン防衛に関する計画(捷一号作戦)では、アメリカ軍の侵攻をフィリピン中南部と予想して、その侵攻地点で航空・海軍の総力をあげて決戦を行い、陸軍の地上部隊の基本的役割は上陸した残敵を所在部隊が叩くというものとされた。陸軍が決戦の主力となるのは、予想が外れてルソン島に上陸があった場合のみに限定されていた。山下大将はそれを自ら確認した上で「ルソン決戦」準備を進めていた。 ところが台湾沖航空戦において海軍が戦果誤認から「空母11隻を撃沈など大戦果をあげた」とする誤った戦果報告を天皇に奏上し、御嘉尚の勅語まで発表された。国民は「アメリカ機動部隊せん滅の大勝利」に沸きかえった。しかし、大本営海軍部は、16日に索敵機が台湾沖で空母7隻を含むアメリカ機動部隊を発見したとの報告を受け、極秘に戦果報告の再判定を行い、大戦果が誤認であることを確認していた。にもかかわらず、「幻の大戦果」であったという事実は、20日のフィリピン防衛戦に向けた陸海軍合同作戦会議においても陸軍には伝達しなかった。 この虚報に乗ってしまった陸軍上層部は、レイテ島へ大規模な増援部隊を送り地上決戦を行う「レイテ決戦」への戦略転換を図った。寺内司令官は、作戦を根底から覆す命令を山下大将に下した。 一方、台湾沖航空戦の戦果を疑っていた山下は反対した。戦力乏しく、制空権が奪われている以上、レイテへ兵員、物資を輸送するのはほとんど不可能に近いと判断したからである。マニラからレイテ島までの距離(約730km。これは東京-岡山と同じ)を考えれば山下の判断は適当であった。第14方面軍参謀たちも大本営、南方軍のレイテ決戦論に反対した。 しかし、10月22日、寺内元帥は山下司令官を南方軍総司令部に呼んで叱り飛ばし、『元帥は命令する』と一言述べた。山下はもう何も言えなかった。そして、「海軍が大戦果を上げているのに、陸軍が後れをとってはならない」との空気の下、次のような南方軍命令が下された。「一、驕敵撃滅の神機到来である。 二、第14方面軍は海空軍と協力し、なるべく多くの兵力を以ってレイテ島に来攻する敵を撃滅せよ。」 こうしてフィリピン攻防戦のターニング・ポイントであるレイテ決戦が決定された。 昭和天皇は戦後に「陸軍、海軍、山下皆意見が違ふ。斯様な訳で山下も思切つて兵力を注ぎこめず、いやいや戦つてゐたし、又海軍は無謀に艦隊を出し、非科学的に戦をして失敗した。」「参謀本部は、現地の事情を知りぬいてゐる現地軍に作戦を一任せず、東京から指揮する有様であつた。」と語られている
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