歴史に姿を現す
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/07 14:22 UTC 版)
延元4年/暦応2年8月16日(1339年9月19日)、後醍醐天皇崩御。南朝の次代の天皇には、子の義良親王が後村上天皇として践祚した。しかし、南朝は既に新田義貞・北畠顕家という両雄を喪失しており、しかも諸国を見渡しても南朝側に付く者は少なく、宮廷は動揺した状態にあった。こうした状況に現れ新帝を補佐したのが、かつて元弘の乱(1331年 - 1333年)で寡兵でもって挙兵し、四面楚歌の後醍醐天皇を勝利に導いた武将楠木正成の嫡子、楠木正行である。 正行の史料上の初見は、延元5年/暦応3年(1340年)4月8日に建水分神社に奉納した扁額で、「左衛門少尉橘正行」を称している。正行は、父と同様、河内国司と河内守護を兼任していたと考えられ、遅くとも同年4月26日には河内国司兼守護としての施行を行っている(『観心寺文書』「河内国国宣」)。 現存文書は全て寺院に関する命令だが、生駒孝臣は、河内国内への他の行政や軍事についても正行が職責を果たしていたであろうと推測し、軍事面では特に父の正成ら楠木党の同国への影響力が多大に作用していたのではないか、と述べている。 延元4年/暦応2年(1340年)に姿を現してからの7年間、正行は戦を行わず専ら河内の政務のみを行った。『太平記』史観に基づく通説的理解としては、正行は直接戦闘をしなかったとはいえ主戦派であり、幕府との戦いを万全にするための軍事力を蓄えていたとされ、全国各地の南朝内主戦派とは連携を取っていたと言われる。例えば、戦前の研究者である藤田精一は、正行は表立った軍事行動こそしなかったものの、この頃、大和国(奈良県)を拠点として幕府と戦っていた開住西阿への支援を行っていたのではないか、と推測した。そして、その論拠として、『阿蘇文書』によれば、後に四條畷の戦いで西阿と同じ開住氏(戒重氏)の開住良円が正行と共に戦死していることを挙げている。一方、次節で述べるように、戦後の新説では、岡野友彦が、正行は実は和平派だったのではないかと主張している。
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