植民地支配への抵抗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 08:28 UTC 版)
「エチオピアの歴史」の記事における「植民地支配への抵抗」の解説
1936年のアディスアベバ攻略の後、イタリアはエチオピアの獲得を宣言したが、この時点でイタリアの支配に服さない地域はカッファ、ショア、アルッシ、バリ、ゴレといった地域で、それは合計で全領土の3分の2にまで達していた。それらの地域は「黒い獅子たち」と呼ばれるレジスタンスによって反イタリア活動が活発だった。イタリアはそれに対し厳しい対処で臨み、レジスタンスの指導者とそれを支援するものはほとんどは処刑された。ただし、レジスタンスの指導者として最も有名なラス・エムル、後に自伝を残したイェルマ・デレサは見せしめとしての用途を期待され、即座に処刑されず刑務所に置かれたまま生き残るが、これは珍しいケースだった。また、イタリアの追及は聖職者も対象とし、エチオピア正教の大司祭ペトロとその後を継いだミハエルは、イタリアへの協力を拒んだことを理由に死刑が宣告された。この時期、修道士だけでも100人以上が処刑されている。さらに皇族も例外ではなく、ハイレ・セラシエの娘のウェルクは獄に繋がれたまま死を迎え、その夫は銃殺された。1937年2月19日にグラッツィアーニへの爆弾テロ(結果は軽傷)が起こると、グラツィアーニはそれを口実にエチオピアへの大規模な弾圧を実施し、「指導者たりえる教養のあるエチオピア人」であるだけで弾圧の対象となった。その対象となったエチオピア人の数はイタリアの管理能力を超えるほどで、刑務所に入りきらないという理由により、少なくとも3,000人以上が動物用の屠場で処刑されるに至る。そのあまりの徹底ぶりはイタリア軍の一部に不服従を生じさせたほどだった。この弾圧により、エチオピアの知識人層は戦前世代と戦後世代の間に欠落した空白の世代が存在している。初期のレジスタンス指導者も多くが捕らえられて処刑されたが、エチオピアのレジスタンスのゲリラ活動自体はむしろ拡大した。ティグレのセユム・マンガッシャといった諸侯もレジスタンスの支援に回る。イタリアの敗戦まで抵抗を続けたレジスタンスとしては、テクレ・ウェルデ、ベライ・ゼレクェ、マモ・ハイル、ハイル・ケブレトらが存在し、彼らは初期では皇帝への忠誠を確信していたが、やがては亡命した皇帝への批判を繰り返すようになっていく。彼らの皇帝への不満は、後々まで尾を引く問題となった。 1936年6月30日、国際連盟総会において、イタリアは「連盟規約に基づき、文明の使者としてエチオピアに公正と解放をもたらす聖なる使命を完遂した」とエチオピア侵略を報告した上で「しかるに、文明国の責務を果たしたイタリアが経済制裁という異常な事態におかれているとは、いかなることか」とその経済制裁の解除を求めた。イタリアとの戦争を避けたかったフランス等はその提案への賛意を示す。続いて演題に立ったのは亡命中のハイレ・セラシエだった。ハイレ・セラシエはイタリア代表とそのジャーナリスト12人の罵声を浴びながら、イタリアの提案は毒ガス使用の根拠と同様に「エチオピア人は文明人ではないため許される」とするもので、「それは事実ではないし、違法性を阻却する妥当性にも欠ける」と訴えたが、総会での審議でイタリアへの制裁解除に難色を示したのは南アフリカとニュージーランドの二か国だけであり、この二か国も7月4日の総会投票では票を変え、イタリアの経済制裁解除提案は賛成44、棄権4、反対1(エチオピア)で可決された。7月15日にムッソリーニは「アフリカ、ヨーロッパのいずれにおいても文明と正義が勝利を収めた」と宣言する。しかし、イタリアの目的であった殖民計画においては、目標とする100万人に対し実際に移民した人数は14万強にとどまり、さらに自給自足もできず、レジスタンスの攻撃も頻繁に起こっていたことで10万人が帰国した。
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