方広寺大仏建て替えへの関与とは? わかりやすく解説

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方広寺大仏(京の大仏)建て替えへの関与

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/05 22:41 UTC 版)

徳川家綱」の記事における「方広寺大仏(京の大仏)建て替えへ関与」の解説

寛文2年1662年5月1日(新暦では6月16日)に、寛文近江・若狭地震発生し京都全域大きな被害もたらしたが、この地震豊臣秀頼造立した造の方広寺大仏(京の大仏)が損壊した(地震発生前から、経年劣化などで既に大仏損壊していたとする説もある)。方広寺大仏は高さ6丈3尺(約19m)とされ、東大寺大仏の高さ約14mを上回り当時大仏としては日本一の高さを誇っていた(なおこの頃はまだ松永久秀による兵火焼失した東大寺大仏及び大仏殿再建はなされていない)。方広寺管理下に置いていた妙法院の、時の門尭恕法親王日記によれば武家より大仏鋳造(造)から木造改めるよう命令がなされ、損壊した大仏取り壊され新しく木造大仏再興された。この一連の経緯について、豊臣氏遺産である造の大仏存在快く思わない江戸幕府が、修繕計画すら立てず既存大仏解体と、(造に比べれば質の劣ると見なされた)木造での再建決定し、それが実行され大仏躯体材は亀戸銭座運び込まれ寛永通宝(文銭)鋳造原料用いられたのだという風説大衆流布した。「大仏躯体材を銭貨にする」という案は知恵伊豆とも称される松平信綱発案よるもので、上記案は通貨量の不足を解消するための公益必要な措置であると時の将軍家綱に建議し、それが了承され実行されたのだとも噂された(新寛永(文銭)項目も参照)。方広寺大仏建て替え経緯については不明確な点が多いが、江戸幕府関与したのは事実で、妙法院大仏再建の経緯綴った洛東大仏殿修覆釈迦大像造営記』によれば京都所司代牧野親成指示のもと、仏師玄信大仏再建あたったという。ただし家綱将軍として方広寺大仏再興にどこまで関与したのかは定かではない。なお「大仏躯体材を銭貨にした」話の真偽について、経済学者貨幣史研究者三上隆三は、真実であるとしている。ただし三上は、大仏躯体材を貨幣鋳造原料再利用されたとしても、寛文期鋳銭材料すべてを賄う量ではなかったとしており、寛永通宝(文銭)の原料全て大仏躯体材で賄われたとする風説誤りとしている。日本銀行金融研究所上記風説真偽について、寛永通宝(文銭)の原材料化学的な成分分析の結果大仏鋳造なされた秀頼期のものとは原材料産出地異なるとして、「たとえ鋳銭原料方広寺大仏用いたとしても、それは(生産され文銭全体割合からみれば)ごく一部に過ぎなかったと判断できる」との結論出している。 京都大徳寺仏殿安置されている本尊釈迦如来像は、時の将軍徳川家綱より寄進されたものだとする文献記録(『竜宝塔頭位次』)がある。方広寺大仏再興は、上述のように玄信という仏師手掛けたとされるが、彼により大仏試作品として製作され仏像(大仏の1/10サイズ像)が、家綱の手経て大徳寺寄進されたという。

※この「方広寺大仏(京の大仏)建て替えへの関与」の解説は、「徳川家綱」の解説の一部です。
「方広寺大仏(京の大仏)建て替えへの関与」を含む「徳川家綱」の記事については、「徳川家綱」の概要を参照ください。

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