方広寺大仏(京の大仏)建て替えへの関与
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「徳川家綱」の記事における「方広寺大仏(京の大仏)建て替えへの関与」の解説
寛文2年(1662年)5月1日(新暦では6月16日)に、寛文近江・若狭地震が発生し、京都全域に大きな被害をもたらしたが、この地震で豊臣秀頼の造立した銅造の方広寺大仏(京の大仏)が損壊した(地震発生前から、経年劣化などで既に大仏は損壊していたとする説もある)。方広寺大仏は高さ6丈3尺(約19m)とされ、東大寺大仏の高さ約14mを上回り、当時大仏としては日本一の高さを誇っていた(なおこの頃はまだ松永久秀による兵火で焼失した、東大寺大仏及び大仏殿の再建はなされていない)。方広寺を管理下に置いていた妙法院の、時の門主尭恕法親王の日記によれば、武家より大仏を鋳造(銅造)から木造に改めるよう命令がなされ、損壊した旧大仏は取り壊され、新しく木造で大仏が再興された。この一連の経緯について、豊臣氏の遺産である銅造の大仏の存在を快く思わない江戸幕府が、修繕計画すら立てずに既存大仏の解体と、(銅造に比べれば質の劣ると見なされた)木造での再建を決定し、それが実行され、大仏躯体の銅材は亀戸銭座に運び込まれ、寛永通宝(文銭)鋳造の原料に用いられたのだという風説が大衆に流布した。「大仏躯体の銅材を銭貨にする」という案は知恵伊豆とも称される松平信綱の発案によるもので、上記案は通貨量の不足を解消するための公益上必要な措置であると時の将軍家綱に建議し、それが了承され実行されたのだとも噂された(新寛永(文銭)項目も参照)。方広寺大仏建て替えの経緯については不明確な点が多いが、江戸幕府が関与したのは事実で、妙法院が大仏再建の経緯を綴った『洛東大仏殿修覆並釈迦大像造営記』によれば、京都所司代の牧野親成の指示のもと、仏師玄信が大仏再建にあたったという。ただし家綱が将軍として、方広寺大仏再興にどこまで関与したのかは定かではない。なお「大仏躯体の銅材を銭貨にした」話の真偽について、経済学者・貨幣史研究者の三上隆三は、真実であるとしている。ただし三上は、大仏躯体の銅材を貨幣鋳造の原料に再利用されたとしても、寛文期の鋳銭の材料すべてを賄う量ではなかったとしており、寛永通宝(文銭)の原料は全て大仏躯体の銅材で賄われたとする風説は誤りとしている。日本銀行金融研究所は上記風説の真偽について、寛永通宝(文銭)の原材料の化学的な成分分析の結果、大仏の鋳造がなされた秀頼期のものとは原材料の産出地が異なるとして、「たとえ鋳銭の原料に方広寺大仏を用いたとしても、それは(生産された文銭全体の割合からみれば)ごく一部に過ぎなかったと判断できる」との結論を出している。 京都の大徳寺仏殿に安置されている本尊釈迦如来像は、時の将軍徳川家綱より寄進されたものだとする文献記録(『竜宝塔頭位次』)がある。方広寺大仏再興は、上述のように玄信という仏師が手掛けたとされるが、彼により大仏の試作品として製作された仏像(大仏の1/10サイズの模像)が、家綱の手を経て、大徳寺へ寄進されたという。
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