新たな課題と対策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/09 01:35 UTC 版)
目屋ダムは1936年策定の改修計画に基づく洪水調節、津軽平野の農地1万2624ヘクタールに対する農業用水供給、認可出力1万1000キロワットの水力発電を目的に完成した。総貯水容量は3900万立方メートルで完成当時は青森県最大のダムであり、岩木川の治水と利水に大きな役割を担っていた。しかしダム完成当時は高度経済成長期に差し掛かる時期で、人口の増加が著しくなる時期であった。このため利水の需給バランスが次第に不均衡になると共に都市・農地の拡大が治水安全度の低下をもたらし、従来の治水・利水計画では対応し切れなくなっていた。 治水では完成直後に流域を襲った1960年8月の洪水で早速洪水調節機能を発揮し、平均の洪水調節率は70パーセントと高い水準であった目屋ダムではあるが、治水計画を上回る洪水も度々発生した。ダム完成後48年間の間に計画洪水調節量を上回る洪水は21回記録され、1972年(昭和47年)の昭和47年7月豪雨と1997年(平成9年)5月の融雪洪水ではダムからの放流量が規定されている洪水調節時の放流量上限を超過した。前二者のほか1975年(昭和50年)の台風5号、1977年(昭和52年)の豪雨、1981年(昭和56年)の台風15号、1990年(平成2年)の平成2年台風第19号、2004年(平成14年)の豪雨で岩木川流域は多くの住宅や農地が浸水被害を受け、特に1977年の水害では死者・行方不明者41名を数える大きな被害を生じた。利水では1973年(昭和48年)と1982年(昭和57年)に大渇水が発生。1988年(昭和63年)には弘前市などで水不足が発生しプールが使用中止になるなどの影響を受けた。渇水は1988年以降2年に1回の割合で頻発し、農民が交代制で用水を利用する番水を行うなど不安定な状況が繰り返されたが特に深刻な水不足は気候変動が顕著になりつつあった2000年代以降であり、2007年(平成19年)の渇水では目屋ダムの貯水が過去最低水位に達し、岩木川の流量が極端に低下して農地には通常の二割しか取水できずひび割れの被害が生じたり、弘前市では上水道の給水制限が行われた。2011年(平成23年)にも再び渇水が発生し給水制限が実施されている。 水害と渇水が交互に繰り返される状況下、岩木川本流におけるダムは目屋ダムしか存在しないため新たな河川開発が必要となった。岩木川水系は1966年(昭和41年)に河川法の改定により一級河川に指定され、新たな河川改修計画である岩木川水系工事実施基本計画が1973年に策定された。この中で岩木川の基本高水流量は五所川原市地点で毎秒5,500立方メートルと大幅に高直しされ、これを河川改修や新規ダム事業で毎秒3,800立方メートルに低減する計画高水流量が決定した。また灌漑や上水道の水源も新たに整備する方向性が定まった。岩木川水系の多目的ダムはこの時点で目屋ダムのほかは沖浦ダムと五所川原市に1973年完成した飯詰ダム(飯詰川)しかなく、特に上水道供給目的を有するダムは飯詰ダムのみであった。このため新たな多目的ダム計画が岩木川水系で検討され、その第一弾として着手されたのが浅瀬石川ダム(浅瀬石川)である。沖浦ダムの再開発事業として治水・水力発電に加え沖浦ダムにはなかった上水道供給目的が新規で加わり、1988年完成した。そして岩木川本流でも新規のダム事業が計画され、既設目屋ダムの直下流に大規模なダムを建設して岩木川の治水・利水を強化する方針が青森県によって計画された。 計画当初「第二目屋ダム」として調査が開始されたダム事業が津軽ダムであり、浅瀬石川ダムが完成した1988年に事業が建設省東北地方建設局(国土交通省東北地方整備局の前身)に移管され、本格的な事業に着手した。
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