捕虜に対する処置
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日本軍は、戦後の捕虜交換で204名(うち満州軍44名)が生還しているが、ソ連軍の記録によれば捕虜は566名であり、捕虜交換で生還しなかった者の消息は不明である。 日本ではまだ「生キテ虜囚ノ辱シメヲ受ケズ」の一文で有名な『戦陣訓』の示達前であり、捕虜になることに対して陸軍刑法などでの法的裏付けも明文化された規則もなかったが、ノモンハン事件の捕虜に関しては1939年9月30日付の『陸満密845号』において陸相命で「捕虜すべて犯罪者と見なして捜査して、有罪と認めたる者を之を起訴すべし」という厳しい方針が示された。しかし、一部将校については軍法会議にもかけられず自決勧告がなされた。乗機を撃墜されて捕虜となった飛行第1戦隊長の原田文男少佐はモスクワに連行されて「日ソは協力して南方に進出すべきだ、ソ連はインド・イランへ向かい、日本は英国を駆逐する」などとソ連側に意見書を提出したりしたが、捕虜交換で日本に帰ると、同じく捕虜となって帰国した飛行第11戦隊の大徳直行中尉と自決勧告を受けた。若い大徳は「撃墜されて人事不省で捕虜になったのだから恥じる必要はない。再起してもう一度戦いたい」と抵抗したが、原田が説き伏せて2名とも自決している。捕虜の中には飛行第11戦隊の天野逸平中尉のように、身柄送還を拒否してソ連空軍に入隊し、独ソ戦を戦った可能性のある捕虜もいた。 しかし表面上は捕虜を犯罪者とみなすという方針をあからさまにすることはなく、捕虜交換委員長であった第6軍参謀長の藤本鉄熊少将は、捕虜を受領したマツエフスカの駅前で「諸子は万策尽きて敵手に落ちたもの、軍人として誠に同情に堪えない。"帰還傷病兵"待遇をもって取り扱われるから決して軽挙妄動してはならない。今夜からは枕を高く、安心して、ゆっくり寝てくれ。長い間さぞかし辛かったことだろう。ご苦労だった」と捕虜を前にして涙ながらに労ったが、藤本の言葉に反して捕虜への対応は過酷であり、捕虜たちはそのまま吉林近くの陸軍病院に監禁されると、そのまま健常な者は一部屋に約50人が詰め込まれて、憲兵の監視下に置かれた。約半月経ってから、関東軍司令部から特設軍法会議が病院に乗り込んできて主に将校が裁判に付され、中には拳銃を渡されて自決を強要された将校もいたという。これら軍法会議での罪状はこじつけで「敵前逃亡」とされ、下士官や兵については有罪になれば教化隊で服役させ、不起訴か無罪となった者についても陸軍懲罰令により懲戒したのち、日本本土外に移住するように斡旋するといった念の入れようであった。軍法会議の判決は重謹慎2日から懲役2年6カ月まで幅があったが、死刑はなかった。 ソ連側の捕虜に対する対応も日本側と変わらず、スターリンは独ソ戦の際に「投降者は家族も反逆者として逮捕する」と指令を出し、ドイツ軍の捕虜となった自分の息子ヤーコフ・ジュガシヴィリを見捨てたぐらい捕虜に厳しく、ソ連軍各部隊も個別に捕虜になることを禁じた訓示を制定しており、ジューコフも同様の指示を出していた。そのため帰国した捕虜らも軍法会議で処罰されており、1939年7月に日本の新聞に掲載されたソ連軍の戦車の投降する写真で、写っていた戦車兵らは帰国すると10年 - 8年の間ラーゲリに送られている。そのため、ソ連軍側でも日本軍と同様に捕虜になることを恐れて多くの将兵が自決しており、日本軍もその光景を目撃している。
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