なりた‐とうそう〔‐トウサウ〕【成田闘争】
読み方:なりたとうそう
三里塚闘争
(成田闘争 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/28 06:03 UTC 版)
三里塚闘争[注釈 1](さんりづかとうそう)は、千葉県成田市の農村地区である三里塚とその近辺で発生し継続している、成田市・山武郡芝山町の地元住民および革新政党、新左翼活動家らによる新東京国際空港(通称:成田空港、2004年4月1日以降の正式名称は成田国際空港)の建設または存続に反対する闘争(紛争)。成田闘争[注釈 2](なりたとうそう)とも呼ばれる。
注釈
- ^ 反対派の自称として主にこの名称が用いられる[3][4][5]。
- ^ 警察・公安系の資料ではこの名称が使われる[6][7]。ただし、反対同盟側の書籍でもこの名称が用いられているものがある[8]。
- ^ 多古線は戦時下に休線となり、戦後も再開することなく正式に廃止された。
- ^ 後に代執行で住居を収用されたことで知られる小泉よねは、取香地区の住民であるものの夫とともに移り住んできた開拓者であり、古村の住民として扱われていなかった[40][41]。
- ^ 上述の『春駒』は、高村が葉舟を訪ねた際に詩作したもの[38][39]。
- ^ 歌集『滴歴』の第一首であり、三里塚第一公園に歌碑が建立されている[38][44]。
- ^ 利根川へ北流する尾羽根川・取香川・大須賀川などと、太平洋へ南流する高谷川などの分水界に位置する[45]。
- ^ 1町歩は、約1ヘクタール(9917.355平方メートル)。
- ^ 1反は、約10アール(991.736平方メートル)。
- ^ 開拓地のほとんどは耕作向きの土地ではなかったが、特に困難だったのが地下茎が張り巡らされていた竹林が分配された東峰地区だった[48][49]。
- ^ 下総台地の分水嶺にあたる高所にある天浪や木の根では水を確保するのにも大変な労力を要し、風呂の水の交換もままならなかった[50]。
- ^ 「早稲田大学成田闘争支援の会」の機関紙『ヴィ・ナロード』には、「木を切り倒し、竹を切り出して柱を立てた上に屋根を作ったような家に住みました。もちろん、雨が降ればもり、風が吹けば吹き抜けます。冬の寒い夜は一晩中、火を焚いて過ごしたこともありますし、また(土地争いで)放火されて、米や家を全部焼かれて、一年まるまる遅れたような生活をして、やっとここまできたのです。...当時の様子を話しても、おそらくあなた方にはよくわかってもらえないと思います。毎日がただ働くだけでした。次の年までどうやって種を残すかで精一杯でした。初めて自分たちの植えた作物が実ったときは、もう、ほんとに涙が出たものです。こうして生きてきた私たちが、結局頼りにできるのは自分以外ない、と思ったのも当然と思います」との天浪入植者の声が載せられている。闘争初期に外部から支援に入った者の多くは、このような開拓者の苦労話を聴いて「あれだけ苦労してきたのだから(土地を)手放すはずがない」と解釈して闘争の永遠性を夢みたが、福田克彦は過酷な環境下での営農で培われた「人間不信の精神」が「頼りにできるのは自分以外ない」との言葉に現れたものと分析し、支援者らはそれを見抜けなかったのだとしている[57]。
- ^ 自衛隊入間基地・立川飛行場、在日米軍厚木飛行場、調布飛行場。なお、立川飛行場近くには米軍が所有する横田飛行場がある。また、立川飛行場では60年代当時米軍機の運用が行われており、ジェット大型機に対応するための拡張計画は地元住民の反対により停止していたものの、正式に撤回されたのは60年代後半のことである(砂川闘争の項を参照)。
- ^ 航空局飛行場部長などを務めた[63]駒田幸彦は、羽田沖展の調査が始められた1970年代当時の羽田空港を取り巻く環境について、「今では想像もつかないでしょうが、四面楚歌の状況下で、例えば、当時2本の滑走路案を提示した東京都(美濃部都政)の案に対して、果たして誰が4本の滑走路案を提示することができたでしょうか。大河川多摩川に、桟橋とはいえ固定障害物の建設を河川管理者が容認したでしょうか。東京港の第一航路を迂回させることができたでしょうか。当時は全く考えることができませんでした。再拡張計画案で合意はおろか提案さえ考えられませんでした。」と後年述べている[64]。
- ^ 2010年、最先端の土木技術と約6000億円を投じて埋立・桟橋ハイブリッド構造のD滑走路が河口付近の海上に設置された[69]。
- ^ 世界初の本格的海上空港である長崎空港の開港は1975年のことであり、大村湾の箕島を埋め立てる形で建設された[73]。
- ^ 加えて1970年代に東京都から「ごみ戦争宣言」が出され、浚渫土の投棄が行われたことで「羽田マヨネーズ層」と呼ばれる極めて軟弱なヘドロの堆積層が形成され、強固な地盤が要請される空港の建設はよりいっそう困難なものとなった[70]。
- ^ 運輸官僚として空港建設地検討に携わった手塚良成は、慶應義塾の機関紙「三田評論」が企画した座談会で、「羽田を沖合に埋め立て拡張できれば、最も理想的だということは一致した意見であった」「(1978年)現在のところ、現実に羽田空港沖合移転の話があり、これは恐らく将来実現化するだろうし、利用者としてもぜひやってもらいたい」としながらも、計画当時それができなかった理由として空域問題を挙げている[66]。
- ^ 手塚良成は、「当時の需要予測からは新空港としてはどうしても1本につき17万5千回のもの4本というキャパシティ(計70万回)が必要であった」としており、2019年現在の羽田空港の能力でもこの要件は満たせていない[66]。
- ^ 当時より管制技術がはるかに高度化した2019年現在でも、4本の滑走路が井桁状に配置された羽田空港では狭隘なターミナル空域で他の滑走路の運用の合間を縫うようにして離着陸が行われるという世界でも類例を見ない運用が行われており、やはり処理能力において著しい制約を受けている[77]。能力増強のための運行体制見直しによって、2020年3月29日以降の羽田空港では滑走路が常に1本使用されない運用となっている[78]。
- ^ この壮大な構想は運輸省の中でも全省的な理解を得られていたわけではなく、「あれは一担当者のハッタリで、急にでてきたものだ」という幹部もいた[80]。
- ^ 新空港の能力を優先すると羽田空港の年間限界能力が1/6程度にまで低下し、風向きによっては使用不能となる[86]。
- ^ 近接する人家密集地帯の騒音対策で2キロメートル沖に埋め立て地点を選ばざるを得ないとすれば、内陸の場合に比較して用地造成経費が2倍以上となる[86]。
- ^ 同時期に産業計画会議も勧告として河野と同様の案を出している。これに対して運輸省は国内線用空港として得難い貴重な存在である羽田の廃港は「非常識で無謀な意見」であるとして勧告内容を否定した[87]。
- ^ 元大蔵官僚の池田は同じ旧制五高出身で吉田学校の佐藤とは盟友であったが、1964年自由民主党総裁選挙で挑戦を受けてからは党人の河野に接近し、河野も後継指名を期待していた[96]。
- ^ 霞ヶ浦の湖底に塩が固まった地層が在り、埋め立てのためにこれが撹拌されると水利や漁業に影響を与えることが判明したことにより、建設地が富里に絞られたとされる[66][90]。
- ^ 大久保利通が取香牧で牧畜を行うことを決めたのが現在の富里市両国といわれる[99]。
- ^ 富里農家の平均耕地面積は県平均の約1.5倍であり、農業粗収入も51万5千円と県平均(36万9千円)を大幅に上回っていた[100]。
- ^ 農民らは先祖代々耕作を続けてきた畑には草(雑草)の種がなく、他の土地には代えられないと訴えていた[101]。
- ^ 1964年9月18日に富里村が行った調査では敷地該当地域の51.7パーセントが絶対反対であり、同年9月25日の調査では八街町では絶対反対が45.71パーセント、無条件賛成が12.17パーセント、富里村では無条件賛成4.3パーセントだった[102]。
- ^ 大内力は「富里は日本でいちばん農業に適した土地だ。ここの農業が成功しないようでは日本の農業はダメだ」と述べていた。空港用地には古村の立沢・高松・高野および開拓部落の七栄・十倉が含まれていた[103]。
- ^ 1965年2月に佐藤首相は「事前に相談する」としていたが、胃潰瘍手術の病後療養のため熱海温泉にいた友納知事や、千葉県選出で早期から空港問題の調停にあたっていた川島自民党副総裁は、事前の相談もなく内定を知らされ激怒した[107]。
- ^ 地元では「竹槍街道を作って、公団の連中が来たらさし殺す」と豪語する者や、社会党オルグの助言を受けて佐藤首相に手紙を書き送り、150通が脅迫状と認定された寝たきりの老人もいた[108]。
- ^ 友納知事は「むかしはね、中央官庁の課長がくるとなればちょっとした田舎町の話題。地方紙なんかも『○○課長来訪』と取りあげるし、町役場ではお手植え松を用意しかねない空気でしたよ。ところがいまはどうですか。銚子の公害課長あたりが運輸省の局長クラスをどなりあげる。いいか悪いか知らないが、今日では住民に近いほうの立場ほど強い。大臣より知事、知事より市町村長、といったぐあいにね」と語っている。また、柴田等・友納両知事の施政下で行われた官民共同の埋立事業(千葉方式)が成功し財政再建団体から脱した千葉県と国との力関係は逆転しつつあった[110]。
- ^ 成田開港時の航空局長で成田空港問題シンポジウム(後述)委員を務めた高橋寿夫は、「昔は空港の位置は地図を広げて風向きを考えるだけで決めた。地下足袋で歩いてそこにはどんな人が住んでいるのか、までは調べなかった。地元のことは県に任せて、県がOKすれば末端もOKだと思っていた。日本の民主主義が未熟なせいもあるが、現場の意見が必ずしも正しく伝わらない。成田の失敗はそこから起きたと思う」と総括した[111]。
- ^ 後述する1966年7月4日の閣議決定の前夜、農林事務次官に地元農民への対処について問われた運輸事務次官は「運輸省が飛行場をつくるときには上の方で一方的に決め、農民はそれに従うのが一般的原則である。これまでもこの方式で飛行場を建設してきたのであり、一度も問題になったことはない」と答えたとする流布話がある[111][113][114]。
- ^ 『佐藤栄作日記』で、佐藤首相はこの年の1月末時点では「(川島正次郎副総裁と)富里問題を相談し、大体の見通しはいゝ」と悠長に構えていたが、3月3日には臨時新東京国際空港閣僚協議会が組織され、カナダ太平洋航空402便着陸失敗事故と英国海外航空機空中分解事故が連続で発生した直後の3月6日には「航空事業は当分赤信号か。富里空港の装備〔ママ〕を急ぐ」として新空港建設を急ぐ方針に転換していたことが確認できる[122]。友納知事と若狭事務次官の交渉もこの頃から行われている[123]。
- ^ 1990年11月8日の事業認定取消訴訟控訴審での若狭得治証言[129]。
- ^ 千葉県企画部空港調査室長の証言によれば、自民党政調会交通部局の案を千葉県が手直しし、取香などの古村を避けるように敷地を削ったとしている[90]。
- ^ 三里塚での空港建設の見通しについて問われた友納知事は以下のように語っている。「富里でもね、名前が挙げられた初めの一年ぐらいは協力ムードだったんだが、その後、政府がぐらぐらしてしかも誠意のない態度が続いたでしょ。そのあいだに、ああなっちゃた。こんどは打つ手は早いし、具体的に話が決まっているし、富里でおたがいに勉強したからねえ。もちろん、今後ああなる危険はあるよ。こういうことでは、政府と県に対する不信感がいちばんいけない。(中略)ムリを承知で内陸部につくろうというのだから、誠心誠意なるべく犠牲を少なくしなきゃねえ」[105]
- ^ 初代総裁は運輸大臣経験者の宮沢胤勇が就任する予定であったが、公団発足の直前に急死している[131]。
- ^ 6月23日付の朝日新聞朝刊では、「(政府は)友納知事に、強行すれば流血の惨事も起こりかねないという現地(富里)の情勢を聞いたうえで、国有地を活用し移転農家を最小限にとどめ、これによって紛糾を避けるという道を選んだ」と三里塚案に理解を示す記事を掲載し[132][133]、地元紙の千葉日報も6月27日付の社説で「政府としては、予定面積が半減し、そのためにSST用をさしあたりたな上げして羽田空港の過密解消に応ずるだけで甘んぜざるを得なかったわけだが、全く行き詰まりの感があった難局を曲がりなりにも切り抜けるできることができたことを多とせねばなるまい」と一定評価している[134]。一方で読売新聞は、「…ところでこれで空港建設問題が円滑に進むかどうか、さらに問題が残らないかというと、問題だらけといってよい。賛成者が多いとはいえ二百五十戸〔ママ〕程度の農家の立ち退きは必要だ(富里地区だと最高千五百戸〔ママ〕)。これらに対する補償、代替農地の建設、道路の整備と問題は山積している」と指摘しつつ、「しかも残された最大の問題は(中略)4千㍍滑走路一本と二千5百㍍の滑走路一本ではまたたく間に手ぜまになるということである。(中略)政府はいったいこれをどう考えようというのか。(中略)運輸省のこれまでの進め方に不手ぎわがあったにしても、もう少し政府与党首脳が本腰を入れて解決にあたっていたら本格空港の建設が可能ではなかったかと惜しまれる」と政権側の力不足によって計画が縮小したことを批判している[135]。
- ^ 当時においては住民参加の概念自体が普及していなかった[137]。
- ^ 例外として、日本航空界のパイオニアの一人であり東峰に入植していた伊藤音次郎は、空港が来たことを大歓迎したと言われる[138]。
- ^ 社会党は機関紙『社会新報』で米軍専用航路・空域や横田・立川・厚木等の米軍基地を返還させて新空港を建設することを主張した。しかし、米軍からの返還可能性はおろか、超音速機受け入れ用の4000メートル滑走路を建設すると人家立ち退きが生じるため実現困難なことが判明し、極めて実現性の低いものであったため立ち消えとなった。党内でも「新空港は軍事利用につながる」とする者から新空港の必要性自体は認める者までおり、結局社会党は具体的なビジョン・対案を出すことないまま、黒い霧事件で対立する佐藤政権への攻撃材料として反対運動支援をつづけた[91][142][143]。
- ^ (1)新東京国際空港の位置は、千葉県成田市三里塚町を中心とする地区とする。(2)新東京国際空港の敷地面積は、1,060ヘクタール程度とする[146]。
- ^ ただし、横風用滑走路については、「航空機の飛行性能が著しく進歩し、成田空港の運用実績においても横風を含む強風等の理由で他空港へダイバートした便の比率は過去10年間で0.03%と極めて少ないことから、(中略)必要性は低くなっている」として成田国際空港株式会社が2016年(平成28年)に事実上取り下げている[147]。
- ^ 弾丸列車計画で獲得した用地を活用した東海道新幹線は着工から5年で完成している[149]。
- ^ 空港公団の権限は理事が「公団は、空港敷地を一歩出たら、一個人より弱い」と嘆くほど新東京国際空港公団法で厳しく制限された。運輸省の官僚の中には、空港公団のことを厄介ごとを押しつけるための「防波堤」と言って憚らない者や、空港公団職員に面と向かって「君たちは石ころなんだ。現場でしっかりやってくれさえすればいい」という者もいたという[152][153]。友納知事も「問題なのは、千葉県では空港公団の総裁はあまり信用されていないのです。その原因はというと、総裁は成田空港内の問題については権限を有しているわけですが、空港外については権限を持っていない。ところが、理解の深い総裁は、住民や市町村長からの訴えについても理解ある態度で受入れる返事をされるケースがあるようです。しかし、総裁権限を超えた部分のことですので、大蔵省、建設省などの関係省庁に出向き、実現方について努力されても、なかなか思うような結果が得られず、結果的にうそをついたことになってしまうわけです。」と語っている[154]。
- ^ 「成田空港の生みの親」と言われる運輸官僚の丸居幹一は、2年程度で異動してしまう役人では大空港のプロジェクトはできないとして、新東京国際空港建設では公団方式を採ることを強く主張していたが、「母体が20名ほどであれば、全体は素人の集団のようなものだった」として成田の公団化の効果はあまりなかったことを認めている[155]。
- ^ 1966年は1946年に入植した開拓農民の「開拓営農資金」の返済(5年据え置き15年払い)が完了し、農家としてようやく自立するはずの年であった[53]。
- ^ 岩山地区の農民は運輸政務次官であった佐藤文生に「先生、ミミズを知っていますか。あれが住みつく土を育てるのに43年かかった。親子二代がかりです。その間のしんぼうといったら大変なものですよ。政府はそこのところが分かっていて、立ち退けというんですかね」と訴えた。なお、佐藤が「私と一緒に土とミミズも代替地に運んでくれますか」という要求を呑んだためその農民は移転を決意し、移転に反対する長年常駐していた学生に「俺に小学生の孫がいるだろう。その孫が学校で"千葉県民の敵"といわれているんだよ。それを聞いたときはショックだった。なぜ俺の孫が県民の敵なんだよ。孫のためにも敵などといわれない土地に移らなければならんのだ」と言って一緒に新天地で農業をすることを提案したが断られたという[160][161]。
- ^ 開港後に反対派との極秘交渉を行っていた加藤紘一に対して、反対派農民が「戦後開墾された土地はやせている。だから補償金を積めば手放すだろうと思っているだろう。それは逆だ。やせた土地は、耕して使えるように苦労したからこそかわいいんだ」と述べたという[162]。
- ^ 1965年に旧遠山村の農家約180戸が協業して桑の栽培を行い、現地に製糸工場が進出する計画が立てられた。1965年には農業構造改善事業の認可を受け、天浪に稚蚕用施設が、天神峰に壮蚕用施設がそれぞれ設けられた。最低保証の年収と労力提供に応じた給料が約されており、多くの開拓農家が参加していたが、三里塚案が公表された直後の1966年6月24日に通達により中止となった[163]。
- ^ 三里塚・芝山の両空港反対同盟は、7月10日に「閣議決定粉砕総決起集会」を共同開催し、8月22日に組織的統合を行うことで合意。やがて「三里塚芝山連合空港反対同盟」と改称した[144]。
- ^ 比較として、1945年9月21日に行われた羽田空港の拡張では、終戦間もない頃にGHQが出した指令によるものとはいえ、1200世帯・3000人の住民が48時間で立ち退きを強いられた。住民への補償も行われないまま、住居は米軍のブルドーザーに取り壊されたという[172][173]。
- ^ 「新東京国際空港の位置および規模について」と同日付[146]。
- ^ 成田市議会の空港設置反対決議は、反対派による直談判や議場包囲などの圧力を受ける中で7月4日の閣議決定の数時間後に保守系議員を含む17人の賛成により(反対5、棄権3)可決されたもので、藤倉武男市長は「なんという軽率なことをやったのか」と頭を抱え込んでいた[105]。
- ^ 芝山町の初期の反対運動は農協を中心に展開され、一時は寺内元助町長以下町役場職員が「空港絶対反対」の鉢巻きを巻いて執務をしていた[178]。
- ^ 深笛義也はこの際に成田市議にそれぞれ25万円が配られていたとしている[179]。
- ^ 円卓会議に提出されたアンケート結果では、移転直後の耕作地面積は移転前より狭くなっていたことが示され(n=23人)、代替農地取得者の9人中8人が地味は移転前の方が良かったと答えている[186]。
- ^ 円卓会議に提出されたアンケート結果では、移転者の68.9%が生活環境や生活の便利さは「良くなった」と答え(n=90人、「変わらない」23.3%、「悪くなった」7.8%)、暮らし向きについても44.4%が「良くなった」と答えている(n=90人、「変わらない」45.6%、「悪くなった」10.0%)[189]。
- ^ 条件賛成派の成田空港店業対策協議会局長は、「開港予定は次々と延期され、ターミナルビル内に出店契約をした者は、契約金を収めても開店できず、他の仕事で食いつなぐ状態でした。その時の私たちの気持ちは、筆舌に尽くしがたい苦労と悔しさでした」と語り、漸く成田が開港を果たした後も厳戒な空港の警備態勢が引かれる中で「地元の店は閑古鳥が鳴く有様」であったという[187]。
- ^ 代執行中に反対派農民はこれらの者を見つけると「裏切り者のガードマン帰れ」とヤジを飛ばした。元条件賛成派のガードマンは「ほんとうはね、こんなことになるとは思っていなかった。こんな警備をするなんて考えもしなかったんだ。よそもんが入ってきたのが悪かったのよ」と述べている[195]。
- ^ 村八分にあった家は隣人から口もきかれず、物も売ってもらえない状態となった。俗に村八分は葬式と火事を例外とされることがあるが[201]、その家の家人が死亡した際には、たまたま反対同盟からの動員がかかったこともあり、故人は長らく地域の小学校の校長等を務めた人物であったにもかかわらずその家の葬式には誰も訪れずに出棺もままならず、更には「葬家の犬」と大書きした嫌がらせの看板が出される始末であった。結局、人権擁護局も手出しができず、その家は追われるように村を離れた[202][203]。
- ^ 2人が公務執行妨害罪・道路交通法違反の現行犯で逮捕された[104]。
- ^ 共産党員らは反対派住民に対し「警察の挑発に乗るな」などと訴えたが、土地の防衛に必死な彼らが応じるはずもなかった[218]。
- ^ 共産党との絶縁を宣言した、1967年11月15日の反対同盟の声明文によれば、共産党は「同盟幹部が運輸大臣に会談を申し入れたとか」と幹部らが日和見をしているかのように喧伝し、「同盟幹部が条件派になつた」「富里村二重掘に同盟幹部二人が四町八反の土地を購入した」と反幹部工作を行ったという[222][223]。
- ^ 社会党は1970年代にも県と反対派の間での斡旋を行うなどしていたが、1980年代には成田空港問題から事実上手を引いた。その社会党に対しては、条件賛成派は当初反対運動を積極的に支援していたことを、反対派は自分たちを置き去りにして撤退したことを、それぞれが批判している[230]。
- ^ 反対派農民は、共産党について「党機関紙『赤旗』を売りつけるなど党勢拡張の運動ばかりしているので追い出した」、社会党についても「何の力にも、なってくれねえ」と述べた[234]。
- ^ 友納知事が地元を訪れた佐々木更三日本社会党中央執行委員会委員長に対し「この空港問題は、地元にとっては極めて深刻な問題なので、政争の具としないでほしい。国会議員は、国会の中で議論してほしい。政党間の政争を、そのまま地元に持ち込んでは本当に困る。一体あなたは新空港は必要であると思うのか。思うならどこが良いと思うのか」と質したところ、佐々木は「私は、新空港は必要だと思うが、場所は政府与党でないから、野党は考える必要はない。知事のいうことはもっともだと思うが、今日は私が説得されに来たのではないので…」と言って帰ってしまったという[235]。
- ^ 羽田事件には青年行動隊の複数人が参加し、新左翼学生の実力闘争を目の当たりにしている[221]。
- ^ 新左翼は新東京国際空港が「日帝の海外侵略基地」・「軍事空港」であると決めつけて闘争対象とした[19][237][239]。開港以降の使用状況を考えると突飛な主張に見えるが、ベトナム戦争当時は羽田空港に多数の米軍のチャーター機が飛来していたことも事実ではある[240]。運輸省と空港公団は共産党系の地元団体と 軍事使用の否定を含むそれぞれの主張を確認する覚書を交わしており[241]、現在でも燃料不足を理由として米軍チャーター機が臨時着陸した際には詳細の明示と軍事不使用の再認を空港会社が求められるなど、強い監視下にある[242]。また、反対同盟北原派は現在でも第3滑走路建設の動きを軍事転用のためのものであるとして集会参加を呼びかけている[243]。
- ^ ただし、新左翼党派の中でも階級闘争至上主義の革マル派は三里塚闘争を「小ブルジョア農民の自己保身」と揶揄したほか、内ゲバや地元の食堂での無銭飲食など素行の悪さが目立ったため[246]、1970年1月に反対同盟の幹部会で「現地闘争に主体的に参加せず、他派に対する誹謗のみを目的とした」として、運動から追放された[247]。その後、革マル派は三里塚闘争への妨害活動を続け[246]、1972年5月に妨害鉄塔撤去(後述)をめぐる攻防は「権力側とのなれ合い」と冷笑したことから、闘争支援の全セクト・現闘団の連名で全戦線からの永久追放を宣言されている[248]。
- ^ 夜から早朝にかけて空港公団職員宅の濡れ縁に座り込んで「さっさと○○(出身地)に帰ればいいのに」「妻も子供も可愛いだろうに」と大声で話し続ける、住宅の近くからあからさまな監視をつづける、「土地泥棒」「このままではすませないぞ」などと電話をかける等、嫌がらせは本人だけでなくその家族をも疲弊させるものだった。更に後年になると玄関先に動物の死骸や人糞を投げ込むなど嫌がらせはより陰湿なものとなっただけでなく、玄関先に灯油缶を置き「家を爆破するぞ」「子供はかわいいだろう」「クルマに乗るときは気をつけろ」などと脅迫電話をかけ、家族に直接危害を加えることもほのめかされた[249]。
- ^ 開港前、空港従業員のために空港公団が手配した送迎バスがあったが、外観からそれとわからないよう行先表示もなく、中が窺えないよう特殊な窓ガラスが施されており、乗り場は人目につかない場所で、乗車できるのは事前に購入した切符を持つ者だけだった。これらは反対派の標的となるのを避けるための措置であり、ルートや乗降場も頻繁に変更するほどの念の入れようであったという[250]。
- ^ 空港問題が持ち上がる前は保守的な農民が多く、反対派の中には過去に自民党の票集めをしていた元自民党員もいた。保守的な農民と新左翼の組み合わせの象徴として、1968年4月18日に宮内庁請願が行われた際、「明治大帝の偉業達成せし下総御料牧場の存続を訴う」という横断幕を持ち、「南無遍照金剛」と書かれたたすきをかけ、襟元に新左翼から配られた毛沢東バッジをつけた老人行動隊長のミスマッチな出で立ちに学生らが衝撃を受け、唖然としたり嘲笑したりしたというエピソードがある[252][253]。
- ^ もともと古村からの開拓部落に対する差別意識があり、用地内に分布する開拓部落でも用地外の古村に対して「自分たちこそが当事者・主人公」という意識が次第に向けられるようになった[254]。
- ^ この時、老人行動隊長が宮内庁へ陳情に行ったときに取り付けたとする「用地内で反対者が一人でもあった場合には、政府、公団といえども牧場地内に一歩も踏み入れさせない」との言質を持ち出して抗議し、戸村代表は「美しい三里塚が、天皇陛下の財産が、佐藤自民党政権によって乗っ取られたんですよ。天ちゃんは今もう何も言うことはできない。そこに佐藤政府が暴力行為をやっている。我々に暴力をやっているんじゃない。天皇陛下の財産を乗っ取るという……〔ママ〕御料牧場を乗っ取るということ、戦前だったらどうだ、佐藤栄作以下為政者たちは真っ先に死刑の断罪に処せられたんですよ。そういう佐藤自民党政権の圧政に対して、我々が闘わないでおられようか。ここに集うみなさん、我々のやることが果たして、国家に対して弓を引く国賊か。過去において立派な功績を果たした下総御料牧場というものが、佐藤自民党政権によって奪われるということを、みなさん許してよいか。それに対して日本人として怒りを感じておらないか。(御料牧場職員に対し)あなた方は宮内庁に仕えた人間として天皇陛下に対して面目がつくか!」と演説した[258]。このような発言は新左翼活動家からは「天皇擁護」として不評であったが、デイビッド・E・アプターは、戸村が御料牧場に魅せられていたのは、芸術家として牧場を見ていたからであろうとしている[259]。
- ^ 測量や代執行で暴行を受けた空港公団職員の中には、歯を6本折られるなどの生涯残る怪我を負ったり、重い障害を負って退職を余儀なくされる者もいた[265][266]。
- ^ 闘争がエスカレートしてくると、機動隊員らも水杯を交わして決死の覚悟で現場に赴いていたという[267]。
- ^ 反対派農家や常駐する支援者が無農薬・有機農法で作った野菜を詰め合わせて、契約した消費者に届けるシステム。経済的事情で闘争から離脱する農家が出ないようにすることを目的として計画され、農地の共有と共同作業による営農が行われた。反対運動により被告となった者の生活を支えるという側面もあった[279]。
- ^ 文献によっては2万人以上とも[282]。
- ^ 死因については、反対同盟側が「ガス弾の直撃」、警察側が「反対派の投石による同士討ち」を主張し、刑事訴訟(不起訴)・民事訴訟と司法解剖結果での判断がそれぞれ異なっている[286][287]。
- ^ 来港者への検問は2015年3月まで実施された[293]。
- ^ 成田市の2017年度予算では空港会社からの周辺対策交付金が約11億、空港関連の固定資産税が約117億円である[300]。千葉・茨城両県の空港周辺10市町への周辺対策交付金給付額は、2021年度には騒音対策区域の拡大を見据えて、71億円に引き上げられている[301]。
- ^ 令和元年度の財政力指数では、成田市は1.31と浦安市に次ぐ千葉県第2位であり(全国順位第12位)、芝山町も0.99と、いずれも全国の市町村と比べて非常に高い数値を示している[302]。
- ^ ちばぎん総合研究所の試算によると、2013年時点における成田空港の千葉県内への経済波及効果は1兆1,440億円と、千葉県全産業の生産額(2013 年:39 兆 6,407 億円)の 2.9%に相当する。[303]。
- ^ 2017年の空港従業員総数は43,271人であり、生産年齢人口に占める空港従業員の割合は、千葉県全体で1.0%、成田市で18.6%、芝山町で7.9%[304]。
- ^ 政府との交渉過程での重要人物や闘争を離脱した農家は、「役目は果たした。もうそっとしておいてほしい」「過激派のテロがこわい」と、年月が経過しても口を閉ざし続けることが多い[321]。
- ^ 戦旗派として闘争に参加していた深笛義也は、「戦旗は、黒色火薬で火炎瓶を飛ばす装置を開発するなどして、空港や機動隊の施設を攻撃。僕自身もそれに幾度も参加した。戦旗が声明を出せばメディアが報じる。効率のいいプロモーションなのだが、それを『死をも投獄も恐れず』という覚悟で行っていた」と述べている[322] 。
- ^ 公安調査庁は、かつて空港関係の業務に携わったことがあるだけのOB宅にまでゲリラが及んでいることについて、少しでも空港関連業務にタッチすれば終生ゲリラ事件の標的になるという恐怖感を植え付ける効果をも企図していると分析している[325]。
- ^ 1990年の日本飛行機専務宅放火殺人事件においては何ら成田空港問題と関わりがない夫人が死亡している[326]。また2003年には八街市内の民家が時限爆弾によって爆破される事件があり[327]、その手口や被害者が千葉県総務部長と同姓同名であったことなどから、中核派が標的を取り違えて無関係の一般人宅を誤爆したものと目されている。この事件についてはいずれのセクトからも犯行声明や謝罪は出されていないが、中核派によるゲリラ事件はこれ以降なりを潜めている[328]。
- ^ 空港会社2019年度資料[344]を元に作成。
- ^ 耕作地をめぐっては、賃貸借契約解除を求めた空港会社による訴訟と北原派農家による請求異議の訴えがなされたが、いずれも北原派農家の敗訴が確定している[345][346]。公安調査庁は、わずかとはいえ北原派農民の土地が二期工区内に現存することは、中核派を始めとする北原派支援セクトにとって、三里塚農民を支援するという"錦の御旗"を掲げる拠り所となっていると分析している[347]。
- ^ 現在の成田空港ではこの地区を避けて、北側に延長することでB滑走路を2500m化している[348]。
- ^ カーフュー。2013年には航空会社の努力では対応できないやむを得ない場合に限って23時台の離着陸を認める「弾力的運用」が開始された[356][357][358]。
- ^ 2020年は新型コロナウイルス感染症の世界的流行の影響により取扱量は激減したものの、国際旅客においては約4割、国際貨物においては約6割の国内シェアを保持している[362]。
- ^ 埼玉県知事として東北・上越新幹線反対運動に取り組んだ畑和は「(住民運動が)『成田闘争』のような過激な集団でなかったことも助かった」、当時県議会交通通信特別委員会委員長を務めていた斎藤正次は「反対運動を『成田闘争』にしてはいけないと、私自身、命がけで取り組んだ」とそれぞれ述べている。住民側の元与野市新幹線反対同盟協議会代表も、「『成田闘争』には悪いイメージがあって、極左の排除には気をつかった」としている[370]。
- ^ 2022年現在、新たにトルコで開港したリゼ・アルトヴィン空港[372]を加えても周囲を海に囲われた海上空港は世界でも10程度しかないとされ、うち半数にあたる5空港(長崎空港、関西国際空港、中部国際空港、神戸空港、北九州空港)が日本に存在する[373]。ただし、洋上に建設された関西国際空港においても、中核派が空港建設工事の見学船を放火するテロ事件を起こしている[374]。
- ^ 関西国際空港一期島の建設の総工費が1兆円であることを初めて聞かされた世界の空港関係者は、余に莫大な建設費に、通訳の誤訳ではないかと聞き返したという[375]。
- ^ 1995年の高速増殖炉「もんじゅ」でのナトリウム漏洩火災事故後、原子力政策円卓会議が開催され[382]、高レベル放射性廃棄物処分懇談会でも資料に用いられている[383]。
- ^ 円卓会議方式が採用された[384]。
- ^ 反対運動をしていた住民が、成田シンポジウムを聴講した[384]。
- ^ 成田空港問題#成田空港問題を扱った作品を参照。
- ^ 台湾総統李登輝は、司馬遼太郎との対談で、中正国際空港(現・台湾桃園国際空港)建設にあたって「無理にすすめると、成田のような事件が起こるかもしれない」と地元の人と話し合いを重ねたと述べている[385]。
- ^ ただし、同空港ではその後の需給逼迫を受けて、開港前の話し合いで取り下げられた第3滑走路を含む拡張計画が出されており[386]、これに対する反対運動が再燃している[387]。
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