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立川飛行場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2010/03/18 04:24 UTC 版)
立川飛行場(たちかわひこうじょう)は、東京都立川市に所在する防衛省所管の飛行場。
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陸軍立川飛行場
立川飛行場は、1922年に帝都防衛構想の陸軍航空部隊の中核拠点として開設された。航空基地用地として立川駅北口に広大な土地があり、燃料輸送や兵員輸送に好都合だった為である。前年に岐阜県各務原で開隊した飛行第五大隊が立川へ移駐し、同隊は1925年(大正14年)に飛行第五連隊へと昇格した。
また、民間空港としても一時共同利用された。1929年には立川と大阪を3時間で結ぶ日本初の定期航空路が開設された。神風号の出発にも利用された。1933年に民間機は東京飛行場(現在の羽田、東京国際空港、1931年開港)へ移転し、以後立川飛行場は陸軍専用となる。
1938年に飛行第五連隊の戦闘中隊は飛行第五戦隊に改編され、翌年には千葉県柏へ移駐したため、太平洋戦争中は実戦部隊こそ置かれていなかったが、陸軍航空の研究・開発・製造の一大拠点として重要な地位を占めていた。立川陸軍航空廠や陸軍航空工廠、陸軍航空技術研究所(1928年移駐)、陸軍獣医資材本廠の他、周辺には軍用機を製造する立川飛行機や日立航空機、昭和飛行機工業など多くの工場が建てられ、これらは戦争末期には連合軍による爆撃の標的となった(立川爆撃)。
アメリカ空軍立川基地
敗戦に伴い、日本を占領下に置いた連合国の1国であるアメリカ軍によりされ、日本軍が使用した旧滑走路の隣に延長約2,000mの新たな滑走路が建設された。当初滑走路から東側は極東航空資材司令部(FEAMCOM - Far East Air Material Command、 FAC 3011、通称フィンカム基地)、西側は極東空軍輸送飛行場(FAC 3012)という異なる2つの基地に分けられ、滑走路は両基地が共有して運用していたが、1956年(昭和31年)1月に統合して立川航空基地(Tachikawa Air Base、FAC 3012、日米安保条約上の施設名称は「立川飛行場」)となった。
また、1954年(昭和29年)4月に第315航空師団(315th Air Division)が立川に移駐し、以後、第1503輸送航空団(1503rd Air Transport Wing)、第65軍事空輸群(65th MIlitary Airlift Group)、第815兵員輸送中隊(815th Troop Carrier Squadron)などの輸送部隊が展開するようになった。これと前後して軍事航空輸送サービス(MATS - Military Air Transport Servic)の旅客ターミナルが開設され、1950年代から1960年代にかけては、軍関係の旅行者や兵員・軍事物資を積んだダグラスDC-6B、ロッキード コンステレーションなどのアメリカ軍にチャーターされた民間航空会社のレシプロ貨物機やダグラスC-124、ロッキードC-57、C-130などの軍用輸送機で賑わい、最盛期には月平均で約2,300回の発着と約2万人の空輸が行われるようになった。
その後、アメリカ軍は滑走路の両端が囲障に近いために実効延長が1,500m程度で当時普及が進んだボーイング707やダグラスDC-8などのジェット輸送機の離着陸ができない立川基地の滑走路延伸を計画。1960年に基地北側への拡張計画を発表したが、地元地権者の猛反対に直面する。 反対運動は後に砂川事件を引き起こし、駐留米軍という存在の合憲性が裁判で争われる、という事態にまで発展した。
砂川事件によって滑走路の延伸を断念したアメリカ軍は、陸軍時代立川飛行場の付属飛行場であった多摩飛行場(現:横田飛行場)に拡張の余地があったことから、立川拡張の代替案として多摩飛行場の滑走路延伸(1,300m→3,350m)と兵員施設を整えた拡張計画を実施し、1960年から横田飛行場への軍事航空輸送サービスの移転が逐次行われた。1967年8月にはロッキードC-141の運用増加に伴い第65軍事空輸群が立川から横田に移駐し、さらに1969年3月には第315航空師団の解散と第22空輸中隊(22nd Airlift Squadron)の活動停止が発表され、同年10月には立川飛行場における飛行活動の全面停止が決定、12月1日に第36航空宇宙救難回収中隊(36th Aerospace Rescue and Recovery Squadron)の横田飛行場への移駐完了をもってアメリカ軍による全ての飛行活動は停止された。
その後もアメリカ軍は倉庫や宿舎・病院などの後方支援施設として立川飛行場の滑走路部分を除いた区域を使用していたが、管理部隊だった第6100支援航空団(6100th Support Wing)が1970年6月に解散し、1971年11月からは横田飛行場で新編された第475基地航空団(475th Air Base Wing)の管理の下でランドリー(洗濯工場)の閉鎖など施設の縮小が進んだ。同年には陸上自衛隊とアメリカ空軍の間で滑走路使用に関する協定が締結され、翌1972年に陸上自衛隊の先遣隊は空から移駐を開始、立川駐屯地として現在に至っている。さらに1973年1月の第14回日米安全保障協議委員会で合意された「関東平野合衆国空軍施設整理統合計画」でアメリカ軍からの全面返還が発表され、段階的に返還が実施されるとともに地域販売所、陸軍死体処理場(1964年に横浜市港北区の岸根兵舎地区から立川に移転)、空軍病院などの主要な施設が横田飛行場に移転し、1977年11月30日に立川飛行場は全面返還に至った。
基地返還と再開発
立川基地は1973年から一部の敷地が段階的に日本政府に返還されてきたが、1977年に全ての敷地が全面返還された。その後、広大な跡地は東部・中央部・西部の3地区に分割され、東側は陸上自衛隊立川駐屯地(後述)のほか、海上保安庁・警視庁・東京消防庁など各官公庁の施設が設けられ、立川広域防災基地となった。1994年には、一部がファーレ立川として再開発された。また中央部は、昭和天皇在位50年を記念して国営昭和記念公園が造営された。
残った西部地区は米軍から返還された後も30年以上実質放置されていたので、自然な森と化し、近年では稀少動植物の存在が確認されている。 そのような中、2007年9月に東京都,神奈川県にある数箇所の刑務所関連施設を統合した「国際法務総合センター」の建設案が法務省から昭島市へ要請され、北川穰一昭島市長は要請を受理する意向を示した。法務省からのこの要請に一部の市民が刑務所施設建築反対運動を行い、27,000人を超える署名を集めて昭島市へ陳情したが、市議会で不採択となった。その後、2008年6月に東京都が利用計画を財務省に提出した。[1]
なおこの土地には、松任谷由実の「LAUNDRY-GATEの想い出」で歌われた、陸軍航空廠の煙突も戦後の佇まいを残している。
現在の立川飛行場
立川基地の返還後、前述の通り跡地中央部は陸上自衛隊の立川駐屯地として再整備され、滑走路は米軍時代より西側の位置に新たに敷設された。更に現在では広域防災基地としての役割があることから、陸上自衛隊のほかに東京消防庁航空隊や警視庁航空隊のヘリコプターなども共用している。また、定期的に航空自衛隊の輸送機(C-1)も飛来する。滑走路の長さは離着陸滑走時に使える北端部分を含めると1200mである。
航空管制
| 種類 | 周波数(VHF) | 周波数(UHF) |
|---|---|---|
| TWR | 118.85MHz 123.10MHz 123.45MHz 126.20MHz 138.05MHz 139.80MHz 141.65MHz |
236.80MHz 298.80MHz |
| GCA | 121.30MHz 125.30MHz 134.10MHz 138.30MHz | 235.00MHz 270.80MHz 335.80MHz |
- 太字は主要波を、斜体は救難用波をそれぞれ表す。
- 出域管制は横田DEP、入域管制は横田APP/RDR/ARRIVALによる管制を受ける。
備考
- 多摩都市モノレール線・立飛駅の名称は、駅周辺に存在するタチヒグループに由来するものであり、現立川飛行場である陸上自衛隊駐屯地とは距離がある。
- 2000年以降、国営昭和記念公園に場所を移して行われていた箱根駅伝予選会のコースが、2005年に飛行場の東からスタートし、北上してから公園に入るコースになり、2006年からは飛行場の滑走路がスタート地点となり、コースも一部が市街地を経由してから公園に入るようになった。予選会参加校の増加に伴い、スタートを公園内にするには限界があり、選手の安全面も配慮されてのものである。
関連項目
参考文献
- 駐留軍用地跡地利用(立川飛行場)(内閣府沖縄総合事務局総務部跡地利用対策課WEBサイト電子図書館所蔵文書)
外部リンク
固有名詞の分類
関連した本
- 立川飛行場物語〈中〉 三田 鶴吉 けやき出版
- 立川飛行場物語〈上〉 三田 鶴吉 けやき出版
- 立川飛行場物語〈下〉 三田 鶴吉 けやき出版

