東京ゴミ戦争
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東京ゴミ戦争(とうきょうゴミせんそう)とは、東京都区部における廃棄物(ごみ)の処理・処分に関する紛争(ごみ問題)のこと。特に1950年代後半から1970年代にかけて、江東区と杉並区の間で起きたごみの処理・処分に関する紛争を指す。1971年に東京都知事美濃部亮吉が「ごみ戦争宣言」を行ったことで「ゴミ戦争」の名がクローズアップされた。
- ^ a b 柴田晃芳 2001, p. 146
- ^ a b c 柴田晃芳 2001, p. 147
- ^ a b c 杉並清掃工場 (2011-07). 杉並清掃工場環境報告書2011 (PDF) (Report). 東京二十三区清掃一部事務組合.
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の日付が不正です。 (説明) - ^ 「東京・夢の島、名前の由来は海水浴場 空港計画も」『NIKKEI STYLE』日本経済新聞社・日経BP社、2013年11月15日。2018年6月26日閲覧。
- ^ a b 柴田晃芳 2001, p. 148
- ^ a b 柴田晃芳 2001, p. 149
- ^ 江東区政策経営部企画課企画担当 (2012年10月18日). “中央防波堤埋立地の帰属について”. 江東区ホームページ. 2013年3月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年1月4日閲覧。
東京ゴミ戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/13 18:39 UTC 版)
詳細は「東京ゴミ戦争」を参照 1950年代の高度成長期には東京都内でごみが急増し始め、それに対応するため東京都は当地をゴミの最終処分場として決定し、1957年(昭和32年)12月よりゴミの埋め立てが開始された。埋め立て中の1961年(昭和36年)7月23日に埋立地北部から出火、消防艇3隻での消火活動も及ばず2週間に渡り燃え続け、4万平方メートルが焼失している。これは当時の総面積の約40パーセントに相当した。 1965年(昭和40年)7月16日、夢の島で発生したハエの大群が強い南風に乗って、江東区南西部を中心とした広い地域に拡散し大きな被害をもたらした。夢の島の南側に位置する南砂町の小学校ではハエ取りが放課後の日課となった。東京都と江東区による懸命な消毒作業が行われたが、抜本的な解決には至らず、警視庁・東京消防庁・自衛隊の協力を得て、断崖を焼き払う「夢の島焦土作戦」が実行された。1967年(昭和42年)にはゴミの埋め立てが終了した。 学校でハエ取りをする南砂町の小学生 蠅だらけとなった教室のハエ取り紙 学校に蠅叩きを持参する小学生 洗濯したての清潔な服に群がるハエの大群
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東京ゴミ戦争
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区長在任時に、都内で発生するゴミが急増して区内の夢の島に1日5千台のトラックが向かっていた。東京都知事の美濃部亮吉は「ごみ戦争」を宣言した。これに対して、江東区議会は自区内での処理を掲げて、ゴミを搬入するトラックの実力阻止を主張した。そして、1972年12月と1973年5月に自らヘルメットをかぶって先頭に立ち、杉並区からのゴミ搬入車を実力で阻止した。その後、杉並清掃工場の建設が実現した。
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