後史:ソビエト連邦の成立(1917年 - 1922年)
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「ロシア帝国の歴史」の記事における「後史:ソビエト連邦の成立(1917年 - 1922年)」の解説
詳細は「十月革命」および「ロシア内戦」を参照 1917年3月2日に成立したリヴォフ公を首班とする臨時政府は官吏・将校が支持する国会臨時委員会と労働者・兵士が支持するペトログラード・ソビエト(メンシェヴィキ、社会革命党が主流)の二重権力状態になっていた。国内では厭戦気分が広まっていたが、自由主義者を中心とした臨時政府は戦争の継続を決め、「無賠償・無併合の講和」を求めるソビエトと対立する。亡命先から帰国したレーニンは臨時政府をいっさい支持せず、ソビエト権力の樹立を目指す「四月テーゼ」を表明した。臨時政府が戦争を有利に終わらせるべく始めた攻勢(ケレンスキー攻勢)は失敗し、兵士と労働者の不満が高まった。7月にリヴォフ公が辞任して、ケレンスキーが首相になるが最高司令官コルニーロフ将軍が反乱を起こした。ソビエトがこの反乱の鎮圧に成功したことで、ボリシェヴィキの勢力が強まる結果となった。 トロツキーが指揮するボリシェヴィキ派(赤衛隊)が武装蜂起を決行、10月25日にペトログラードを制圧してケレンスキーの臨時政府を打倒した。メンシェヴィキや右派社会革命党といったソビエト右派がボリシェヴィキの行動の承認を拒否したことにより、ボリシェヴィキと左派社会革命党によるソビエト政権が樹立された(十月革命)。11月に憲法制定会議選挙が行われたが、社会革命党が勝利し、ボリシェヴィキは第2党に留まった。1918年1月に憲法制定会議が開かれると選挙結果を拒否するレーニンは即日解散させ、ソビエト大会で社会主義ソビエト共和国の成立を宣言した。ロシアはソビエト政権とこれに反対する諸勢力との内戦に突入する。 即時講和を方針としていたソビエト政権はドイツとの和平交渉に入るが、ドイツ側は「無賠償・無併合」を認めずに難航した。国内の混乱で崩壊状態のロシア軍にはドイツ軍の攻勢を阻むことは難しく、1918年3月3日(新暦)にバルト地方・ベラルーシの一部・ウクライナといった広大な領土の喪失を引き換えとしたブレスト=リトフスク条約が締結され、ロシアは第一次世界大戦から離脱した。左派社会革命党は講和に反対して連立から脱退し、ボリシェヴィキの単独政権となった。 反革命派(白衛軍)の攻勢が強まり、さらにチェコ軍団救出を口実にイギリス・フランス・アメリカそして日本の連合国が干渉軍を派遣し、ソビエト政権はしばしば危機に陥っている。この内戦の最中の1918年7月17日(新暦)、ウラル地方のエカテリンブルクに幽閉されていたニコライ2世一家と従者合わせて11人はボリシェヴィキによって殺害された(ロマノフ家の銃殺)。1918年11月にドイツが大戦に敗れると、ソビエト政権はブレスト=リトフスク条約を破棄した。トロツキーの指導のもとで強化されたソビエト軍は、1919年中の戦闘で白衛軍の攻勢の撃退に成功した。1920年のポーランドとの戦争には敗れたものの赤軍は国内の平定を進め、11月にはクリミア半島に残っていたヴラーンゲリ将軍の白衛軍が壊滅しており、1921年3月のクロンシュタットの反乱が鎮圧されたことでソビエト政権の勝利が確定した。 1922年12月30日(新暦)、ロシアとザカフカース連邦共和国、ウクライナ共和国および白ロシア共和国の四つの社会主義共和国によるソビエト連邦が成立した。
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