後古典期
後古典期(A.D.950年 - 1524年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/12 06:43 UTC 版)
「マヤ文明」の記事における「後古典期(A.D.950年 - 1524年)」の解説
「プトゥン人」も参照 後古典期(A.D.950-1524)には、北部でチチェン・イッツァを中心とする文明が栄えた。チチェン・イッツァの衰退後、12世紀ごろにマヤパン(Mayapan)が覇権を握り、15世紀中期までユカタン半島北部を統治した。マヤパン衰退後は巨大勢力はどこの地域にも出現せず、スペイン人の侵入にいたるまで群小勢力が各地に割拠していた。またこの時期は交易が盛んになり、コスメル島(Cozmel Island)などの港湾都市や交易都市が、カカオ豆やユカタン半島の塩などの交易で繁栄した。
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後古典期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 15:48 UTC 版)
続く経済的繁栄(A.D.900~1531) 後古典期になって、グアテマラ北部のペテン低地などの「中部地域」で、マヤの諸都市が放棄されても、ラマナイは、人口の減少が起こらず繁栄を続けた。また、ノームルが復興してユカタン北部の影響を受けた建造物が建設されている。ラマナイのみならずベリーズ国内に見られるこの時期のほかの遺跡でも、儀式が行われた遺構では、マヤパンなどユカタン半島の後古典期の遺跡で出土するものとほぼ同じ香炉が発見されている。これは、チェトウマルという国がこの時期に「ベリーズ」で繁栄していたことと関連していると思われる。また、さんご礁のキーにも、後古典期の遺跡が見られ、鉛釉土器の出土が見られる。プトゥン人のホンジュラス西部のモタグァ川の河口からユカタン半島を周回し、タバスコ州へ抜ける交易路に近かったこと、カカオ豆の産地だったことなどで衰退せずにすんだと思われる。 1527年、ユカタンの征服者として知られるフランシスコ・デ・モンテーホが、チェトゥマルの中心地を訪れたときには、2000もの家屋を目撃したという記録がある。
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