後古典期のメキシコ湾岸にあったプトゥン人の町々
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/11 00:16 UTC 版)
「プトゥン人」の記事における「後古典期のメキシコ湾岸にあったプトゥン人の町々」の解説
アカラン地方には、76か所に及ぶ町や村落があったとされ、16世紀ごろに繁栄していたのは、当時アカラン地方の首府というべき町イツァムカナックという町であり、パクスボロナチャと呼ばれる王がいたとされる。イツァムカナックの支配階層をなす一族、すなわち「パクスボロナチャの兄弟たち」は、アカラン商人たちの長距離交易を支配することによって富と権威を得ていた。 イツァムカナックは、4つに区分されて、パクスボロナチャの部下である4人の長官がそれぞれに割り当てられた区画を支配していて、900から1000か所に及ぶ漆喰の施された石造りの家々があった。その家々の大部分には複数の家族が暮らしていたことが伝えられている。アカラン地方の町々の最高位の支配者ないし首長や町を区分したその区の指導者は、「主君」ないし「支配者」という意味のアハウという称号によって知られ、彼らは、マヤ語とナワ語の両方に由来する個人の名前も持っていた。 しかし実際のところは、そういった町や村の正確な位置は一部を除いてよくわかっておらず、考古学的な一般調査によって、大規模な遺跡が10か所弱あることがようやく確認されている状況である。そのような調査の結果、多くの研究者がイツァムカナックであろうと推察するに到ったのは、高さ20mを超えるピラミッド状の構築物、いくつかの基壇状の構築物のほか球戯場と思われる遺構をもち、13平方キロを超える規模を持つエル・ティグレという遺跡である。 チョンタルパ地方では、グリハルバ川の河口付近に「プトゥン人の蛇」という意味の名をもつポトンチャンという町があった。 タバスコ州にあるTixchelの遺跡は、16世紀後半に、プトゥン人がもどってきたときに彼らの信仰していた月の女神であるとともに、洪水、多産、織物、医療の神である女神イシュチェルにちなんでその名で呼ばれるようになった。スペインによる征服以前には、征服後の二倍の人口があったことがわかっている。 タバスコ州のプトゥン人の住んでいた町々には、ナワ語やソケ語を話す人々も住んでおりお互いに交流もあった。交易相手となるだけでなく、プトゥン人の個人名にナワ語由来のものが見られたり、ナワ語の暦にある日の名前に当たるものも珍しくないように、結婚も行われていたようである。
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