広告としての位置づけ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/06 14:33 UTC 版)
チンドン屋は路上で行われる音声広告であり、歩く野立て看板もしくはポスター・POP広告であり、広告請負業でもある。 音声広告は、売り声・かけ声および鳴物などの使用による広告の総称で、中世の行商人や大原女にさかのぼる。江戸中期にはさまざまな工夫がこらされるようになり、文化・文政期の引札には口上が記録されることが多くなり、明和6年の引札には「トウザイトウザイ」の表現も現れる。こうした口上は、歌舞伎にも取り上げられた。売声だけでなく、派手な衣装で歌や踊りを披露し、鉦やチャルメラで個性を出した。飴売がその声を売り物として東西屋となり、依頼を受けて楽器演奏を行う民間吹奏楽隊と結びついてチンドン屋の母体となったと言える。広目屋の秋田と東西屋の九里丸は実際に交流があり、大規模な楽隊広告では口上役と楽隊をそれぞれに依頼し、共同作業を行った。 屋外広告は明治10年代から活発化の兆候を見せており、東西屋、広目屋の系譜に連ならない音声広告としては、明治19年の日本橋中嶋座の正月公演「大鼓曲獅子」(おおつづみまがりじし)の錦絵に太鼓を抱えて西洋菓子の宣伝をする姿が描かれているものがあり、大正期には一人で喇叭を吹き太鼓を鳴らして宣伝をするオイチニの薬売などがあった。 明治初期の広告手段は、引札が中心で、1877年頃から新聞広告が増加する。当初時事新聞専業の広告代理店として三世社らが起こり、1884年に複数の新聞を手掛ける代理店業に広目屋も参入した。規模は異なるにしても、ほぼ並行して広告を請負う事業がはじまっていることになる。明治後半の楽隊広告は大規模化し、楽士の派遣業も成立したが、昭和期に至るまで口上を主体とする宣伝業は個人での事業が中心であった。引札や新聞広告のほか、昭和に入って野外広告板、アドバルーンやネオン管によるビルなどの広告が登場し、チンドン屋は地域密着型になっていったとされる。古くは、九里丸が質屋の宣伝を請け負った際に大通りではなく路地を回って成功した例があり、小規模な業務形態で限定的な地域での宣伝については対費用効果が高かったことは戦後の復興の中で最盛期を迎えた理由の一つである。 類似した広告請負の形態としては、ジンタ(ヂンタ)、サンドイッチマンがある。ジンタは広告楽隊、特に映画やサーカスの呼び込みの楽隊を指し、大正期から隠語として存在し昭和初期から徳川夢声が漫談などで用いるようになって広まった。徳川や堀内敬三は、5人程度の規模の楽隊を指すものとしてこの語を用い、その衰退を嘆くが、ジンタの演奏家がチンドン屋に流入し、管楽器を含むチンドン屋が普及する時期とジンタの語が広まった時期が重なるため、両者が同一視されることもあった。加太こうじによると、明治末から大正にかけてまではチンドン屋からの依頼で小編成の楽隊、つまりジンタが演奏を行うことがあった。そうした関係は楽士がサイレント映画の伴奏を行うようになって解消したが、映画がトーキーへ移行すると、職にあぶれた楽士たちが再びチンドン屋と手を組み、あるいはチンドン屋を開業するようになった。サンドイッチマンは、明治19年に既に現れ、戦後も週刊誌を賑わせた。音楽や口上を伴わず特別な技能を必要としない点で異なるが、街頭宣伝ということで共通する。
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