島津久光とは? わかりやすく解説

島津久光

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/20 14:30 UTC 版)

島津 久光(しまづ ひさみつ)は、江戸時代末期薩摩藩主・島津忠義の実父、明治時代日本政治家位階勲等爵位従一位大勲位公爵君輝邦行雅号は幼少時が徳洋、以後は大簡叟松玩古道人無志翁と号した。


注釈

  1. ^ 『島津氏正統系図』では種子島氏の養子になった事実が省かれている。
  2. ^ 安政5年(1858年)5月13日に幕府軍艦咸臨丸が鹿児島を訪問したおり、斉彬は勝海舟に忠教を紹介している。
  3. ^ 文久元年(1861年)10月、大久保と伊地知(堀)を御小納戸役に抜擢し、岩下を軍役奉行兼趣法方掛に、海江田と吉井を徒目付とした。
  4. ^ 4月16日、久光は非公式に京都の近衛邸を訪問。近衛忠房議奏中山忠能正親町三条実愛と会談。同日、久光へ滞京して浪士鎮撫の任にあたるよう勅命が下る。翌17日、久光は公式に京都錦小路の薩摩藩邸に入る。
  5. ^ 老中水野忠精官名和泉守との同名を避けるための処置とされる。
  6. ^ 久光(薩摩藩)にとっての幕政改革における主要目標は、「三事策」のうち自身の主張である第3条を実現することにあったと考えられる[2]
  7. ^ 事件発生前に、アメリカ人貿易商ユージン・ヴァン・リードも久光の行列と遭遇しているが、彼は日本の慣習に通じていたため、行列に道を開けて下馬・脱帽し表敬の挨拶をしたので大事には至らなかった。
  8. ^ この官位は、歴代の薩摩藩主と同等の格式に相当する。官位を得るまでの久光は、薩摩藩の最高権力者ではあったものの、あくまで藩主の実父という存在であって、形式上、幕府将軍)や朝廷天皇)から見れば陪臣に過ぎなかった。
  9. ^ 長州再征を期して、征夷大将軍徳川家茂慶応元年(1865年)5月16日に江戸城を出陣、閏5月25日に大坂城へ入り征長の本営とする。
  10. ^ 大坂滞在中の将軍以下幕閣および京都朝廷に対して通商条約の勅許と兵庫(現・兵庫県神戸市)開港を要求するため、イギリス公使パークスフランス公使ロッシュアメリカ代理公使ポートマンオランダ総領事ファン・ポルスブルックが、慶応元年(1865年)9月13日に軍艦9隻を率いて横浜を出帆、16日に大坂湾へ来航し兵庫沖に艦隊を停泊させる。欧米列強の軍事的威圧の下で10月5日、一橋慶喜らの説得を容れた孝明天皇が、通商条約は勅許、ただし兵庫開港は承認せずという内容の勅諚を降下する。
  11. ^ 兵庫開港については、慶応元年10月の条約勅許の際に孝明天皇によって差し止められた経緯があったものの、文久2年(1862年)締結のロンドン覚書による取りきめ上、1868年1月1日(慶応3年12月7日)の開港が予定されており、開港期日の6カ月以前に開港予定を布告するよう義務づけられていた。そのため幕府としては、布告期限までに兵庫開港の勅許を得る必要があった。
  12. ^ 朝廷は10月15日、慶喜の大政奉還を勅許、あわせて10万石以上の諸侯に対して上京を命じ、久光のほか、前尾張藩主・徳川慶勝松平春嶽伊達宗城山内容堂広島藩主・浅野茂長、前佐賀藩主・鍋島閑叟岡山藩主・池田茂政を特に指名して召集した。
  13. ^ 東京奠都により明治2年3月、天皇が京都から東京へ再幸、東京城が「皇城」となり、太政官も東京へ移る。
  14. ^ これに困惑した西郷隆盛の周旋により願い出は揉み消される。
  15. ^ この巡幸の最大の目的は、久光を慰撫することにあったと考えられる[3]。巡幸には、西郷隆盛のほか、西郷従道川村純義吉井友実高島鞆之助等、鹿児島藩の出身者が多数随行していたにもかかわらず、久光への挨拶がなくその怒りを買う。久光に非礼を詫びるために、西郷隆盛が同年11月に帰郷し、翌年5月まで東京を離れている。
  16. ^ この建言書については、翌年6月22日に久光が注釈書を政府へ提出したとされるが[4]、実際に注釈書が提出されたかについては疑問がある[5]
  17. ^ 玉里家に伝わった史料・典籍は、後に「玉里文庫」として鹿児島大学付属図書館の所蔵となる。
  18. ^ なお宮尾登美子天璋院篤姫』では於哲の妹とされているが、これは誤伝である。
  19. ^ 2008年に放映されたNHK大河ドラマ篤姫では、吉高由里子が演じた。
  20. ^ 徳川家定継々室候補の一人となったが、島津斉彬の選抜によって島津忠剛の娘・一(かつ、のちの天璋院)を擁立することが決まり外れた。

出典

  1. ^ 森岡浩 2012, p. 249-254.
  2. ^ 渋沢栄一『徳川慶喜公伝』第8章参照
  3. ^ 佐々木克『幕末の天皇・明治の天皇』第2部第3章参照
  4. ^ 『島津久光公実紀』巻7
  5. ^ 芳即正『島津久光と明治維新』第9章参照)
  6. ^ 『逸事史補』
  7. ^ 『木戸松菊公逸話』p66
  8. ^ 『大隈重信自叙伝』P262
  9. ^ 『早稲田清話』P313
  10. ^ 『官報』第307号「叙任及辞令」1884年7月8日。
  11. ^ 『官報』第1278号「叙任及辞令」1887年9月30日。
  12. ^ 『官報』第1278号「彙報 - 褒章」1887年9月30日。
  13. ^ 『官報』第1308号「叙任及辞令」1887年11月7日。
  14. ^ 青天を衝け:大河ドラマ新キャスト発表 磯村勇斗が第14代将軍・徳川家茂 深川麻衣が和宮 西郷隆盛役は博多華丸”. まんたんウェブ (2021年1月26日). 2021年1月26日閲覧。


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