高島鞆之助とは? わかりやすく解説

高島鞆之助 たかしま とものすけ

高島鞆之助の肖像 その1
弘化元年11月9日大正5年1月11日 (1844~1916

鹿児島生まれ。陸軍軍人。父は鹿児島藩士。藩校造士館に学ぶ。戊辰戦争従軍明治7年(1874)陸軍大佐任官西南戦争では別働第1旅団司令長官16年(1883)陸軍中将17年(1884)子爵24年(1891)第1次松方内閣陸相翌年枢密顧問官28年(1895)台湾副総督第2次伊藤内閣および第2次松方内閣で拓務相と陸相歴任32年(1899)、再び枢密顧問官となり終身その職にあった

キーワード 陸軍軍人, 政治家

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高島鞆之助

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/06 14:44 UTC 版)

高島 鞆之助(たかしま とものすけ、天保15年11月9日1844年12月18日) - 大正5年(1916年1月11日)は、日本武士薩摩藩士)、陸軍軍人政治家華族。薩摩藩士・高島喜兵衛の四男。は昭光。称号は陸軍中将正二位勲一等子爵陸軍大臣拓殖務大臣枢密顧問官等を歴任した。また、現在の追手門学院小学校の前身である、大阪偕行社附属小学校の設立者でもある。当時の自宅は上智大学四谷キャンパスのクルトゥルハイム聖堂として現存する。


  1. ^ 『官報』第7180号、明治40年6月7日。
  2. ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)16頁
  3. ^ 『官報』第994号「叙任及辞令」1886年10月21日。
  4. ^ 『官報』第2388号「叙任及辞令」1891年6月17日。
  5. ^ a b 『官報』第1031号「叙任及辞令」1916年1月12日。
  6. ^ 『官報』第307号「叙任及辞令」1884年7月8日。
  7. ^ 『官報』第1306号「叙任及辞令」1887年11月4日。
  8. ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。
  9. ^ 『官報』第4022号・付録「辞令」1896年11月24日。
  10. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  11. ^ a b c 鹿児島紀行三﨑一明、追手門学院大学教育研究所紀要 第 30 号(2012年3月)


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