大井ダムとは? わかりやすく解説

大井ダム

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/25 03:07 UTC 版)

大井ダム(おおいダム)は、木曽川本川中流部、岐阜県恵那市大井町と中津川市蛭川(旧・恵那郡蛭川村)の境に建設されたダムである。


  1. ^ 大井ダム湖とその周辺の景観とを総じて「恵那峡」と称している。
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  11. ^ a b c 『電力発電所設備総覧』平成12年新版201頁
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  15. ^ a b 『大同電力株式会社沿革史』276-277頁
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  24. ^ 東海電力部・東海支社の概要 発電所のリフレッシュ」 関西電力、2016年3月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年7月12日閲覧
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  26. ^ a b c d 『大同電力株式会社沿革史』89-90頁
  27. ^ a b c d e 『大同電力株式会社沿革史』379-381頁


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大井ダム

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福澤桃介」の記事における「大井ダム」の解説

1919年11月8日木曽電気興業大阪京阪電気鉄道提携により、大阪送電株式会社設立された。社長福澤桃介で、第一次世界大戦による好景気電力不足に陥る関西地方木曽川開発する電力送電することを目的とした。翌1920年大正9年)には、同じく関西方面への送電目的とする山本条太郎率い日本水力との合併案をまとめ、10月大阪送電木曽電気興業日本水力の3社の合併決定。そして翌1921年大正10年2月25日、3社の合併成立し資本金1億円の新会社大同電力株式会社発足する至った初代社長には介が自ら就いた大同電力での活動は#事業大同電力参照 一方木曽電気興業母体となった名古屋電灯1920年から周辺事業者の合併路線を採るようになり、介が社長兼ね豊橋電気など複数電力会社合併。さらに1921年10月には奈良県関西水力電気合併し関西電気となった介は関西電気でも社長務めたが、同年12月23日付で副社長下出民義とともに同社から退き関西電気九州電灯鉄道との合併取りまとめ同社経営陣である伊丹弥太郎松永安左エ門経営譲った以後関西電気翌年東邦電力改称)には相談役として関わった。なお翌1922年8月25日福澤系の名古屋セメント九州豊国セメント合併されると、こちらでは介が社長に就任している。 木曽川開発については大同電力発足後も引き続き進展し1921年から1923年にかけて大桑須原桃山読書よみかき)の順で発電所竣工関西地方への送電線並行して建設され1922年より大阪への送電開始している。さらに1922年7月大同電力日本初めての本格的ダム式発電所となる大井発電所(岐阜県)建設着手した。この大井発電所は、計画当初段階では従来発電所と同じ水路式発電所の予定であったが、河川落差少ないためダム式発電所とするのが有利とされたため変更された。自身が語るところによれば、日本では前例がなく早過ぎる、アメリカで研究ができてから始めた方が安全だという議論があったが、偉いものを造ろうという野心燃えたためダム建設着手することになったという。ところが建設中1923年9月関東大震災発生し金融逼迫生じて資金の調達困難になってしまう。12月には国内金融機関からの融資不調に終わったが、その後アメリカのディロン・リード商会(英語: Dillon, Read & Co.)との間で米ドル建て社債、すなわち外債の発行についての話が纏まり1924年大正13年4月1500ドル募集仮契約調印まで漕ぎ着けた仮契約調印をうけて介は秘書らを引き連れて外債発行交渉のため1924年5月13日横浜港出港31日ニューヨークへ到着した出発前、交渉失敗終われば工事資金調達できなくなり工事中断もありうるので、その場合は責任負って日本には帰らずスイス移住する覚悟であると語っていたという。困難な交渉の末、同年7月18日に本契約調印終わり全米大同電力社債売り出し発表された。売り出し見届けて一行は2か月過ごしたニューヨーク引き上げ8月23日帰国した。滞米中6月水力開発に関する学識経験慶應義塾大学対す寄付などの教育への貢献称えユニオン大学から理学博士 (Doctor of Science) の学位贈られている。帰国後の1924年12月大井発電所完成に至る。出力は42900キロワットで、読書発電所抜いて当時日本最大発電所であった電気事業での活動一方1920年代に入るとガス事業見切りをつけて電気事業への一本化を図るようになり、1913年から社長務め続けていた新潟瓦斯(旧・合同瓦斯)についても日本瓦斯持株手放して1925年大正14年)には退いた。そして日本瓦斯同年10月会社解散となった

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