大井ダム
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大井ダム(おおいダム)は、木曽川本川中流部、岐阜県恵那市大井町と中津川市蛭川(旧・恵那郡蛭川村)の境に建設されたダムである。
- ^ 大井ダム湖とその周辺の景観とを総じて「恵那峡」と称している。
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大井ダム
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1919年11月8日、木曽電気興業と大阪の京阪電気鉄道の提携により、大阪送電株式会社が設立された。社長は福澤桃介で、第一次世界大戦による好景気で電力不足に陥る関西地方へ木曽川で開発する電力を送電することを目的とした。翌1920年(大正9年)には、同じく関西方面への送電を目的とする山本条太郎率いる日本水力との合併案をまとめ、10月に大阪送電・木曽電気興業・日本水力の3社の合併を決定。そして翌1921年(大正10年)2月25日、3社の合併が成立し資本金1億円の新会社大同電力株式会社が発足するに至った。初代社長には桃介が自ら就いた。 大同電力での活動は#事業・大同電力も参照 一方、木曽電気興業の母体となった名古屋電灯は1920年から周辺事業者の合併路線を採るようになり、桃介が社長を兼ねる豊橋電気など複数の電力会社と合併。さらに1921年10月には奈良県の関西水力電気と合併し関西電気となった。桃介は関西電気でも社長を務めたが、同年12月23日付で副社長の下出民義とともに同社から退き、関西電気と九州電灯鉄道との合併を取りまとめて同社経営陣である伊丹弥太郎・松永安左エ門に経営を譲った。以後関西電気(翌年東邦電力に改称)には相談役として関わった。なお翌1922年8月25日、福澤系の名古屋セメントが九州の豊国セメントに合併されると、こちらでは桃介が社長に就任している。 木曽川開発については大同電力発足後も引き続き進展し、1921年から1923年にかけて大桑・須原・桃山・読書(よみかき)の順で発電所が竣工。関西地方への送電線も並行して建設され1922年より大阪への送電を開始している。さらに1922年7月、大同電力は日本で初めての本格的ダム式発電所となる大井発電所(岐阜県)の建設に着手した。この大井発電所は、計画当初の段階では従来の発電所と同じ水路式発電所の予定であったが、河川の落差が少ないためダム式発電所とするのが有利とされたため変更された。桃介自身が語るところによれば、日本では前例がなく早過ぎる、アメリカで研究ができてから始めた方が安全だという議論があったが、偉いものを造ろうという野心に燃えたためダム建設に着手することになったという。ところが建設中の1923年9月、関東大震災が発生し、金融逼迫が生じて資金の調達が困難になってしまう。12月には国内金融機関からの融資が不調に終わったが、その後アメリカのディロン・リード商会(英語: Dillon, Read & Co.)との間で米ドル建て社債、すなわち外債の発行についての話が纏まり、1924年(大正13年)4月に1500万ドル募集の仮契約調印まで漕ぎ着けた。 仮契約調印をうけて桃介は秘書らを引き連れて外債発行交渉のため1924年5月13日横浜港を出港、31日にニューヨークへ到着した。出発前、交渉が失敗に終われば工事資金が調達できなくなり工事中断もありうるので、その場合は責任を負って日本には帰らずスイスへ移住する覚悟であると語っていたという。困難な交渉の末、同年7月18日に本契約の調印が終わり、全米に大同電力社債の売り出しが発表された。売り出しを見届けて桃介一行は2か月を過ごしたニューヨークを引き上げ、8月23日に帰国した。滞米中の6月、水力開発に関する学識経験と慶應義塾大学に対する寄付などの教育への貢献を称え、ユニオン大学から理学博士 (Doctor of Science) の学位が贈られている。帰国後の1924年12月、大井発電所が完成に至る。出力は4万2900キロワットで、読書発電所を抜いて当時日本最大の発電所であった。 電気事業での活動の一方、1920年代に入るとガス事業に見切りをつけて電気事業への一本化を図るようになり、1913年から社長を務め続けていた新潟瓦斯(旧・合同瓦斯)についても日本瓦斯の持株を手放して1925年(大正14年)には退いた。そして日本瓦斯も同年10月に会社解散となった。
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