塾中懸令
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 02:06 UTC 版)
練兵館塾生が遵守すべき日課を定めた「塾中懸令」には、毎朝、五つ時(午前8時ごろ)まで素読を行うことが定められているほか、午後の出稽古の無い時は手習、学問、兵学、砲術をも心掛け、怠惰に日常を過ごさないよう訓辞されており、剣術のみならず空いた時間に学問も修めることになっていた。塾頭を務めた渡辺昇は後に、土木工事や時事など「武術の外に教へられた処が多かつた」と言ったという。 また、斎藤弥九郎が雑談の形で、桂小五郎など長州藩や水戸藩などの門下生たちに尊王攘夷思想の薫陶をそれとなく与え続けていたといわれる。特に桂小五郎は、師匠の斎藤に積極的に願い出て、斎藤の兵学の師である西洋兵学者の江川英龍の弟子となっている。江川は当時、最新の軍事知識を有する西洋兵学者として幕府からも絶大な信頼を得ており、1853年の黒船来航により、江戸湾一帯の台場築造の責任者として駆り出された。桂は、江川から単に小銃術・西洋砲術などを学ぶだけでは飽き足らず、この台場築造の実際を見る機を捉えて、積極的に江川に願い出、江川の付き人として一般人が立ち入ることを許されなかった江戸湾の軍事要衝地における台場築造工事をつぶさに視察している。 伊豆国・相模国・甲斐国など五カ国の代官を務める西洋兵学者の江川が、儒学の教養深い斎藤を自分の用人格として形式的に召し抱え、斎藤および練兵館の志士たちのスポンサー役を果たしつつ、幕府の危機を彼らに伝え続け、彼らはその貴重な情報を素直に受け止め続けていたのである。
※この「塾中懸令」の解説は、「練兵館」の解説の一部です。
「塾中懸令」を含む「練兵館」の記事については、「練兵館」の概要を参照ください。
- 塾中懸令のページへのリンク