地頭の領主化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/12 23:28 UTC 版)
平安中期以降、摂関政治にみられる藤原北家の官位独占などにより、中央政界からあぶれた下級貴族の多くが、地方へ下向した。開発領主はこれらの貴族と主従関係を結ぶことにより、荘園をめぐる紛争解決に役立てようとすることが多く、自らは武装して武士となり、また下級貴族のなかには、これらを武士団として組織して、その棟梁と呼ばれることも少なくなかった。これら武家の棟梁のなかから、やがて奥州藤原政権、平氏政権が生まれ、12世紀末葉には鎌倉幕府の成立をみた。 鎌倉時代では地頭の存在が知られるが、本来は地頭とは荘官の名称のひとつであり、文治の勅許の際にも、源行家・源義経追討を名目として荘園・公領から兵糧米を徴収する権限が与えられたにすぎず、土地の支配権を得たわけではなかった。また、その設置も当初は平氏没官領に限られていた。 しかしながら、幕府に忠誠を誓った武士すなわち御家人は、この地頭職の補任ないし安堵というかたちで論功行賞その他がおこなわれ、荘園・公領における年貢の徴収や土地の管理、治安の維持にあたって現地支配の実権をにぎった。鎌倉時代を通じて地頭による荘園侵略がさかんにおこなわれ、荘園領主との間に土地に関する紛争が激化した。そこで荘園領主は、地頭請所の契約を結んで、荘園管理の一切を地頭にまかせるかわりに年貢の納入を約束させたり、下地中分のとりきめをおこなって、荘園の土地そのものを領主と地頭で折半したりした。しかし、この結果、荘園領主のねらいとはうらはらに、地頭の荘園支配はいっそう進んだ。
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