土蜘蛛の妖怪
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/25 17:34 UTC 版)
時代を経るに従い、土蜘蛛は物語や戯曲などに取り上げられ山蜘蛛や土蜘蛛などの名称で、日本を「魔界」にしようとする存在あるいは源頼光に対抗する蜘蛛の妖怪とされ、妖怪として定着していった。 『平家物語』の「剣巻」では「山蜘蛛」と表記され、源氏の家系に伝来する「蜘蛛切り」という刀にまつわる物語として登場しており、このはなしが能の五番目物の『土蜘蛛』などにも取り入れられ、妖怪としての土蜘蛛がひろく知られるようになった。源頼光が瘧(マラリア)を患って床についていたところ、身長7尺(約2.1メートル)の怪僧が現れ、縄を放って頼光を絡めとろうとした。頼光が病床にもかかわらず名刀・膝丸で斬りつけると、僧は逃げ去った。翌日、頼光が四天王を率いて僧の血痕を追うと、北野神社裏手の塚に辿り着き、そこには全長4尺(約1.2メートル)の巨大な山蜘蛛がいた。頼光たちはこれを捕え、鉄串に刺して川原に晒した。頼光の病気はその後すぐに回復し、土蜘蛛を討った膝丸は以来「蜘蛛切り」と呼ばれた。能の『土蜘蛛』では、土蜘蛛は四天王らに対して「葛城山に年を経し土蜘蛛の精魂なり」と語っている。 14世紀頃に製作された絵巻物『土蜘蛛草紙』では、巨大な蜘蛛の姿で描かれている。源頼光が家来の渡辺綱を連れて京都の洛外北山の蓮台野に赴くと、空を飛ぶ髑髏に遭遇した。不審に思った頼光たちがそれを追うと、古びた屋敷に辿り着き、様々な異形の妖怪たちが現れて頼光らを苦しめた、夜明け頃には美女が現れて目くらましを仕掛けてきたが、頼光はそれに負けずに刀で斬りかかると、女の姿は消え、白い血痕が残っていた。それを辿って行くと、やがて山奥の洞窟に至り、そこには20丈(約60m)ほどの巨大な山蜘蛛がおり、この蜘蛛がすべての怪異の正体だった。激しい戦いの末に蜘蛛の首を刎ねると、その腹からは1990個もの死人の首が出てきた。さらに脇腹からは無数の子グモが飛び出したので、そこを探ると、さらに約20個の小さな髑髏があったという物語である。 浄瑠璃や歌舞伎では、世界設定に「前太平記」(源頼光四天王たちがおもに活躍する)が採られると、上記の物語が題材として引かれることが多く、江戸時代以後様々な戯曲・舞踊作品に土蜘蛛が登場した。蜘蛛が妖術を用いる手法は『善知安方忠義伝』の山蜘(やまぐも)や『白縫譚』の小女郎蜘蛛などの作品へと影響を与えている。 以上のようにさまざな作品に蜘蛛のすがたをした妖怪として土蜘蛛は登場していったが、いずれも物語や能を典拠として制作されており、各作品と『古事記』『日本書紀』や『風土記』などに見られる古代の土蜘蛛たちの伝説などとの直接的な参照関係は希薄である。
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