四令門
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 01:31 UTC 版)
金剛山の麓にある4つの「門」は四令門と呼ばれ、海を挟んだ対岸の国の首都州の「飛び地」になっており、1年に1回、それぞれ定まった安闔日(あんこうじつ)(春分・夏至・秋分・冬至)の正午から翌日の正午にだけ開かれる。 北から時計回りに 令艮門 - 対岸は雁州国、安闔日は冬至 令巽門 - 対岸は巧州国、安闔日は秋分 令坤門 - 対岸は才州国、安闔日は夏至 令乾門 - 対岸は恭州国、安闔日は春分 が存在する。 門の構造は令乾門を例に取ると、門扉の高さは四十丈以上、幅二百歩以上。あまりの巨大さに、内側に傾いているように錯覚する。門は二層になっており、一層は巨大な一枚岩をくりぬいたもので、ここに人の身の丈の数十倍はある、天伯の姿が刻印された朱塗りの門扉がある。二層の青丹の高楼は朱塗りの柱に碧の瓦で、中央に小さく、門扉のない門があり、その上に黒塗りに金で「令乾門」と書かれた扁額がある。高楼の上は開いていて、飛翔できる騎獣であれば飛び越えられそうな高さであるが、門番がいるため飛び越えようとするものはいない。門の両側には岩棚のような歩墻があり、城塞での任期が明ける兵士が最後の仕事として、ここでの警護を行う。 四令門と、その手前の街の四令門に通じる門は黄海に向けて開かれる。 四令門の門前の土地は広大だが、金剛山全体から見れば金剛山脈の切れ目の断崖の麓にある小さな砂州の様な、非常に限定された土地である。この「門」が開く時は、黄海の内部から妖魔が外部に向かって大量に溢れ出て来る可能性がある為、非常に厳重な警備体制が敷かれる。 四令門の前の街の門を出ると、宗闕の間近に迫る金剛山の峰々が千尋に切り裂かれ、一条の道を作っている。四令門へ続く道は削り取られたように峰と峰が迫っていて、その間に広い谷が続いている。峡谷の道幅は六百歩(騎馬を連ねて隊列が往き来できる広さ)あり、地門の門前から徐々に両岸の岸壁が高くなっていく。この道は街からは上り坂だが、曲がりくねっている深い峡谷のため下り坂と錯覚する。 四令門の先、渓谷に蓋をするような形で石造りの隔壁がある。四令門からここまでは飛翔すれば一瞬の距離で、深い渓谷故に上空からの見通しが悪いからなのか、ここで妖魔に捕まる不運な者は少ない。隔壁の向こうは城塞になっている。この城塞は門前の街を守る為に安闔日の度に資材を運び、長い年月をかけて造られた堅牢な物で、門前の街を持つ国の兵士が1年の任期でここに駐留している。隔壁から城塞へは城塞の道幅いっぱいに立ち塞がる石の隋道が通っている。隋道には石と漆喰で固めた天井を所々切り、そこに小さな屋根をつけて天窓を設けている。煙出し程度の屋根の四方に鉄柵を植えて妖魔を排除し、光と空気を入れている。城塞は小さな里ほどの体裁のある城とも町ともつかない代物で、町の道は細く、かろうじて騎馬が二頭並べる程度の道幅しかない。その両脇に石造りの低い建物がぴったりと続いて並んでいる。その道の頭上も石で、隧道の中のような明り取りが切られており、暗くはないが、決して明るくもない。湿気が淀み、四方の石材は古び、黄海に特有の熱気がこもっている。そもそもは街を守るための兵馬の施設だが、その恩恵をごく普通の旅人も浴する事が出来、土間に雑魚寝だが泊まる事が出来、粗末とはいえ食事も出してもらえる。この城塞が黄海で最初で最後の人の土地であり、城塞から黄海に出ると人外の土地である。城塞の外の安全が確保されると黄海への門が開かれる。城塞を出ると落ち込むような傾斜で下る岩だらけの傾斜になっており、その下には、見渡す限り緑の樹海が広がっている。左右には金剛山が迫っている。森には、ようやく馬車が通れる程度の道幅の道が続いている。これは金剛山から下る沢に沿い、長い年月の間に昇山の人々によって切り開かれ、踏み均された道である。坂の下には広場があり、兵士が布陣する岩棚がある。城塞の扉を開ける際に倒した妖魔の死骸が城塞の傍に積まれている為、2、3日は妖魔はその死骸の血の臭いに釣られて旅人の方に来ることは少ない。朝に城塞を出ると午を少し過ぎた頃に草地に出る。この草地は休む場所を作るために枝を打ち払い、若い木を切り倒す事を幾百年と繰り返した結果、全員が休めるだけの場所が出来た物である。
※この「四令門」の解説は、「十二国」の解説の一部です。
「四令門」を含む「十二国」の記事については、「十二国」の概要を参照ください。
- 四令門のページへのリンク