嘉応の強訴
嘉応の強訴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 14:24 UTC 版)
詳細は「嘉応の強訴」を参照 嘉応元年(1169年)12月23日、延暦寺の大衆が、重盛の義兄で尾張国の知行国主・藤原成親の流罪を求めて強訴を起こした(嘉応の強訴)。大衆は内裏を取り囲んで気勢を上げ、検非違使別当・平時忠は官兵の派遣など早急な対策をとることを進言する。この時、重盛は官兵300騎を率いて宗盛・頼盛とともに待機していた。公卿の議定では慎重論が大勢を占め、重盛も後白河院の三度に渡る出動命令を拒否したため、やむを得ず後白河院は成親の流罪を認めた。 しかし、すぐに巻き返しに転じて成親を検非違使別当に任命、時忠は解任され身代わりに配流とされてしまう。後白河院と延暦寺の対立は悪化の一途をたどり、事態を憂慮した清盛は正月14日、重盛を福原に呼び寄せて状況を報告させた。このように重盛は一門の代表とはいえ、重要案件については清盛の判断が優先していて、自らの意思・行動はかなり制約されていた。結局、成親の解官で延暦寺は引き下がり事態は沈静化する。同年4月、重盛は権大納言に復帰し、成親も検非違使別当に返り咲いた。 嘉応2年(1170年)、七男の宗実を左大臣・大炊御門経宗の猶子にしている。朝廷の公事の知識乏しい平家公卿は、この経宗に儀式作法の教えを受けていた。また重盛室の経子も経宗の猶子になっている。
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