嘉応の強訴とは? わかりやすく解説

嘉応の強訴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/04 04:48 UTC 版)

嘉応の強訴(かおうのごうそ)は、嘉応元年(1169年12月23日1170年1月18日)、延暦寺大衆が尾張国知行国主藤原成親の配流を求めて起こした強訴後白河法皇は成親を擁護したが、上流貴族や平氏の非協力的態度により事態は紛糾した。後白河と平氏の政治路線の対立が、院政開始後に初めて表面化した事件である。


  1. ^ 安元3年(1177年)4月13日、延暦寺が加賀守藤原師高の配流を求めた強訴で、重盛の兵が神輿を射るという失態を犯したことについて、兼実は「神輿を射る事、武士の不覚なり。先年成親卿の事に依り、大衆参陣の時、左衛門の陣方、頼政これを禦ぐと雖も、大衆軍陣を敗る能はず、又濫吹を出さず、事の謂はれその人勢今度の万分の一に及ぶべからず」(『玉葉』4月19日条)と記している。これにより頼政が、嘉応の強訴で左衛門の陣(建春門の付近)を守っていたことが確認できる。『平家物語』「御輿振」は安元の強訴で頼政が縫殿の陣(朔平門)を守ったとするが、これは嘉応の強訴での活躍を元にした創作の可能性がある。


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嘉応の強訴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 14:24 UTC 版)

平重盛」の記事における「嘉応の強訴」の解説

詳細は「嘉応の強訴」を参照 嘉応元年1169年12月23日延暦寺大衆が、重盛義兄尾張国知行国主藤原成親流罪求めて強訴起こした(嘉応の強訴)。大衆内裏取り囲んで気勢上げ検非違使別当平時忠官兵派遣など早急な対策をとることを進言する。この時、重盛官兵300騎を率いて宗盛・頼盛とともに待機していた。公卿議定では慎重論大勢占め重盛後白河院三度に渡る出動命令拒否したため、やむを得ず後白河院は成親の流罪認めた。 しかし、すぐに巻き返し転じて成親を検非違使別当任命時忠解任され身代わり配流とされてしまう。後白河院延暦寺対立悪化一途をたどり、事態憂慮し清盛正月14日重盛福原呼び寄せて状況報告させた。このように重盛一門の代表とはいえ、重要案件については清盛判断優先していて、自らの意思行動はかなり制約されていた。結局、成親の解官延暦寺引き下がり事態沈静化する。同年4月重盛権大納言復帰し、成親も検非違使別当返り咲いた嘉応2年1170年)、七男の宗実を左大臣大炊御門経宗猶子にしている。朝廷公事知識乏し平家公卿は、この経宗儀式作法教え受けていた。また重盛室の経子経宗猶子になっている

※この「嘉応の強訴」の解説は、「平重盛」の解説の一部です。
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