吉原及び近辺の名所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 23:36 UTC 版)
「吉原 (東京都)」の記事における「吉原及び近辺の名所」の解説
吉原を歴史的な名所として位置付け、山谷堀、大門などを復元し、観光名所として復活させようという意見[要出典]もあるといわれる。 吉原土手 現在の土手通りに平行して山谷堀があり、堀を船で通う遊客も多かった。堀と通りの間が土手になっていたが、現在では取り崩されている。現在も「土手通り」の通称で名前が残る。また、日本堤というのももとはこの土手を指したものである。 衣紋坂(えもんざか) 遊客がここで衣紋をつくろう(身なりを整える)ことに由来するという。土手通りから吉原遊廓の入口の間にある坂。廓内から出入りする客が外から見えないようにS字状に道を付けたとされる。 見返り柳 衣紋坂入口の左手にある柳。遊び帰りの客が後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ振り返ったという。現在は跡地に石碑が建つ。すぐ後ろにある柳の木は昭和になってから植えられたもの。 大門(おおもん) 吉原歓楽街への正面玄関。治安目的は勿論、遊女たちの逃亡を防ぐため、出入はこの大門一箇所のみとされた。江戸時代には黒塗り木造のアーチ型楼門が建設され、明治期には2代目となる鉄門が築かれたが、1911年の大火で焼失。関東大震災を機会に撤去された。現在は「吉原大門(よしわらおおもん)」の交差点名が残るほか、直近の都営バス上46系統、草64系統、台東区循環バスめぐりん(「北めぐりん」日立自動車交通)のバス停名として残っている。江東区の洲崎(現在の江東区東陽)にあった遊廓『洲崎遊廓』の洲崎大門と吉原大門をつなぐ『大門通り』という街道が現在もバス通りとして残る。遊廓と遊廓を繋ぐ街道ということで、ここを遊びに行き来した男たちを皮肉って「親不孝通り」の別称でも呼ばれた。 吉原神社(よしわらじんじゃ) 1872年(明治5年)新吉原四隅に祀られていた稲荷祠を合祀し、吉原遊廓の鎮守として創建。1935年(昭和10年)弁財天を祀る吉原弁財天祠を合祀。弁天池(べんてんいけ) 元来湿地帯であった当地に新吉原が造成されるにあたって、沼沢を南部に寄せ池を形成。湖畔に弁天祠が祀られ信仰を集め弁天池(又は花園池)等と呼ばれていた。遊女逃亡防止としても機能していたが、1923年(大正12年)関東大震災に伴う火災で逃げ遅れた遊女らが、弁天池に飛び込み490名の犠牲者を出すという悲劇に見舞われた。戦後、電電公社電話局建築にあたりそのほとんどは埋め立てられたが、現在も関東大震災の犠牲者を悼む観音像が残る。 鷲神社(おおとりじんじゃ) 吉原の西側、千束3丁目にある神社。11月の酉の市で有名。 浄閑寺(じょうかんじ) 吉原の北側、荒川区南千住2丁目にある寺。1855年の大地震の際、多くの吉原の遊女が、投げ込み同然に葬られたことから「投込寺」と呼ばれるようになった。その後も、身寄りのない遊女たちを葬り、川柳に「生まれては苦界、死しては浄閑寺」と詠まれた。慰霊のための新吉原総霊塔のほか、しばしば当寺を訪れた永井荷風の詩碑が建立されている。毎年、荷風の命日である4月30日頃に、寺の主催で「荷風忌」が営まれる。江戸時代に売春を行っていた女性に対する戒名は、「~売女」という極めて劣悪な戒名をつけられていた。 見返り柳
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