古代エジプト王朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 08:49 UTC 版)
エジプト統一後、第16ノモスの州都は重要な貿易の中心地になった。レバント人は州都に面する紅海経由の交易路を通ってシナイ半島やカナンから交易品を運んできた。 エジプト古王国後期、州都は「メナート・クフ」に改名された。紀元前2550年頃に王位についていたクフ王の出身地だと信じられていたことが由来である。メナート・クフの正確な位置は不明だが、ナイル西岸で現在のミニヤーからそう離れていない場所にあると信じられている。 古王国の崩壊から第1中間期(紀元前2180 – 2040年)には、メナート・クフの州総督は強大な富と権力を得て、中央のファラオに対してある程度の自治権を得ていた。ヘラクレオポリス(英語版)とテーベの間の長期にわたる抗争に対し、当初メナート・クフの王子たちは中立を保っていたが、バケット3世(英語版)の時代にメンチュヘテプ2世率いるテーベ人と同盟を結んだ。このテーベよりの姿勢により、テーベ人がオリクス・ノモスを征服した後も総督一族は権力を維持出来た。第11王朝 (紀元前2134 – 1991年)時代にメナート・クフは最盛期を迎えた。 ファラオと同様に、オリクス・ノモスの総督たちも死後の生に深い関心を持っていた。しかしピラミッド建設が時代にそぐわなかったためか、財力が無かったのか、メナート・クフの総督たちは東の砂漠でナイル川の優雅な流れを見下ろしている石灰岩の崖に岩窟墳墓を掘ることを選んだ。これらベニハッサンの墳墓はミニヤーが栄えた時代の唯一の遺物である。現代のベニハッサン村には39カ所の崖墓が現存する。古代エジプトの他の遺跡に比べると偉大とも荘厳とも言えないが、これらの墓所の壁画には4000年前のエジプトの生活に関する貴重な情報が残っており、非常に重要性の高い遺跡である。墓所を築いた総督たちよりも、古代エジプトの庶民の生活に関する知見が多く得られている。 第12王朝の隆盛を背景に、アメンエムハト2世はミニヤーの支配者の権力を削いだ。第12王朝が終わる頃には、ミニヤーの支配者は権力を奪われ何の役割も持たなくなっていた。 第2中間期(紀元前1782 – 1570年)には、ミニヤーを含む中部エジプトと下エジプトはヒクソスに支配された。ミニヤーの総督は、エジプト人のファラオが支配する第16王朝と大17王朝ではなく、ヒクソスの第15王朝を支持したと見られる。第2中間期の終盤、テーベのファラオがヒクソスをエジプトから排除しようと試みたとき、ミニヤーは最初の大規模な戦闘の舞台となった。紀元前1552年、第17王朝の最後のファラオ・カーメスはメジャイ(英語版)人部隊を北のネフルシー(ミニヤーの数km南)に向けて進軍させ、そこでペピの息子テティと呼ばれる人物の軍を破った。テティはミニヤーを「アジア人の巣」に変えた張本人とされていた。これはヒクソスにとって初めての大きな敗北だった。紀元前1540年前後、カーメスの弟のイアフメス1世は北に進軍し、ヒクソスをエジプトから排除することに成功した。 ベニハッサンに建造された崖墓の大部分は後に荒廃した。一部は直後の支配者によって毀損された。ファラオ時代の終焉から数世紀の内に多くの墳墓の石室は損壊した。岩窟は住居に転用されたり、格好の採石所として利用されたり、初期のキリスト教徒やムスリムによって破壊されたりした。
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