古代エジプトのナポレオン
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「エジプト第18王朝」の記事における「古代エジプトのナポレオン」の解説
ハトシェプスト時代の長い平和の間に、アジア方面ではエジプトの覇権に危機が訪れていた。それはかつてトトメス1世によってシリア・パレスチナから排除されたミタンニ王国が、シリア北部のカデシュ王を盟主とした対エジプト同盟を結成させてエジプトの影響力をそぎ落としにかかり、やがてカデシュ王らにパレスチナの要衝メギドを占領されシリア北部におけるエジプトの宗主権は失われてしまったのである。 こうした状況に対し、トトメス3世は単独統治開始後わずか半月でアジア遠征を開始した。進発から10日でガザに到達して町を占領した。これに対し反エジプト勢力はエジプトからメギドに向かう道を封鎖してエジプト軍を待ち構えたが、トトメス3世はカルメル山の峠道を強行突破して敵軍の虚を着き圧勝した。反エジプト諸国の軍はメギド市に撤退して篭城したが、これも7ヶ月間の包囲戦の末陥落させたのである(メギドの戦い)。この勝利はエジプトのシリア・パレスチナ支配の転換点となった。トトメス3世は降伏したシリア地方の諸国に対して忠誠を誓わせたが、更にシリアに対する支配を強めるために諸王に対して王子を人質としてエジプトに送ることを定め、シリアをいくつかの管区に分けて監督官を置いた。 もっとも、この勝利の後も、カデシュ王をはじめとしてシリア地方の諸国はしばしばエジプトに敵対的な態度を示した。トトメス3世は以後、夏が訪れるたびにアジア遠征を繰り返し、その回数は治世の終わりまでの間に17回に達している。エジプトにとってこうしたシリア地方支配における最大の問題は同じくシリアへの勢力拡張を狙うミタンニ王国であり、支配を磐石のものとするためにはミタンニそのものを撃退する必要があった。これを企図して行われたのがトトメス3世の治世33年に行われた第8回のアジア遠征で、トトメス3世が行ったアジア遠征の中で最大の規模を持つものである。エジプト、ミタンニ両国の軍はハラブ(アレッポ)付近で遭遇、戦闘が行われた。トトメス3世はこれに勝利し、敗走するミタンニ軍を追ってユーフラテス川に到達、更に川を超えて前進し、シリアからミタンニ軍を放逐した。 我が神はアジアの果てまで進まれた。余は「ビュブロスの妻」の御前で、神の国の山々で杉の木を伐採し、多数の荷船を作らせた。船が車に積まれると牛が車を引いていった。船はこの外国とミタンニとの境を流れるあの大河を渡るために、我が神の前を進んでいった。…余を襲った者を追って川を群の先陣を切って真っ先に渡り、ミタンニの異郷にあの惨めに逃げ回る敗残者を捜し求めた。するとこ奴は他の土地へ、遠方へと、我が神の前を恐怖に駆られて逃げていく。 トトメス3世は勝利を収め、かつてトトメス1世が行ったようにユーフラテス川沿いに境界石を建設すると、帰途に象狩りをするなどの余裕を見せて凱旋した。 この勝利はシリアにおけるエジプトの権利を国際的に承認させる事に繋がった。ミタンニ以外の当時のオリエント世界の大国、即ちヒッタイトとバビロニア(カッシート朝)がシリアにおけるエジプトの地位を承認する使者を立てた。なおシリアではカデシュを中心に反エジプトの動きがあったが、やがて完全に鎮圧された。 17回のアジア遠征によってシリア支配を確立したトトメス3世は南方に軍を転じ、ナイル川第4瀑布のナバタ地方までを征服、エジプトは史上空前の勢力を確立するに至った。ヌビアは第二瀑布を境に下ヌビア(ワワト)と上ヌビア(クシュ)に分割され、それぞれに副総督が置かれてヌビア総督(南の異国の王子)を補佐する体制が築かれた。以降ヌビアからは毎年300kgに達する金が貢納されたという。 このような成果を見て、近代の学者ジェームズ・ヘンリー・ブレステッドはトトメス3世を「古代エジプトのナポレオン」と評したのである。
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