反プロテスタント主義の強硬派
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「パウルス4世 (ローマ教皇)」の記事における「反プロテスタント主義の強硬派」の解説
ジョヴァンニ・ピエトロ・カラファはナポリの名家の一員としてベネヴェントで生まれ、伯父のオリヴィエロ・カラファ(英語版)枢機卿の指導を受け、彼の推薦で教皇庁へ入った。キエーティ司教(1505年 - 1524年)、教皇レオ10世の指示によってイングランド教皇特使(1513年 - 1514年)、スペイン教皇大使(1515年 - 1520年)、ブリンディジ大司教(1518年 - 1524年)を歴任した。スペインで冷遇され、そこで感じた強烈な嫌悪感が神聖ローマ皇帝兼スペイン王カール5世とハプスブルク家に対する不信感に繋がり、後の教皇としての姿勢に影響を及ぼすことになる。 1524年、クレメンス7世の許しを得て全ての聖職禄を辞し、ガエターノ・ティエーネ(イタリア語版)と共同でテアティノ会(英語版)として知られる聖カエタノス修道会の創設に加わり、初代総長として修道生活に入った。ところが1527年のローマ略奪でテアティノ会はローマからヴェネツィアへ退去、カラファもヴェネツィアへ逃れティエーネが次の総長になったが、カラファは1532年にヴェネツィアで教会改革の意見書をクレメンス7世へ送り、改革派の急先鋒として知られるようになった。やがて改革教皇といわれていたパウルス3世に声をかけられてローマに戻り、ガスパロ・コンタリーニ(英語版)、レジナルド・ポールらと共に教会改革のための委員に任命された。 カラファが権力の中枢についたことは、人文主義的な教皇の時代が終わり、スコラ学とトマス・アクィナスの徒であったカラファの時代になったことを顕著にあらわすものであった。1536年12月にカラファは枢機卿に選出され、1542年にローマの異端審問所所長にも任命され、イタリアの異端審問所を再編成して異端根絶とプロテスタントのカトリック復帰に厳しい手段をもって努力した。この時から厳格さと無慈悲さで恐れられ、「異端であれば、例え自分の父親であっても火炙りにするだろう」と公言してはばからなかった。 強硬な態度はプロテスタントへの姿勢にも表れていた。マルティン・ルターらプロテスタントに一定の理解を示し対話を考えるハト派のコンタリーニに対して、最初からプロテスタントを異端と見做して弾圧を主張するタカ派のカラファは意見が合わず、両者はカトリック教会の風紀粛清と人事刷新で目的は一致していたが手段に違いがあり、前者は説得で後者は弾圧を重視していた。このため、1541年にプロテスタントとカトリックの和解を求める皇帝カール5世の意向に沿って、レーゲンスブルクでフィリップ・メランヒトン、マルチン・ブツァーらプロテスタントと対話して妥協したコンタリーニにカラファは激怒、パウルス3世もルターも妥協を拒否したため、カトリックとプロテスタントの和解は失敗しカトリックはカラファの路線に突き進むことが明らかになった(コンタリーニは翌1542年に死去)。1545年から開会したトリエント公会議に出席したが、ここでもコンタリーニと同じハト派と見たポールをルター派だと非難している。ポールへの敵視はこの後も続き、1549年のパウルス3世死後のコンクラーヴェでは教皇有力候補だったポールを再びルター派だと非難して落選に追いやったとされている。 1549年から1555年までナポリ大司教を務め、1553年にユリウス3世により首席枢機卿に任命、1555年3月23日にユリウス3世が死去、続いて選出されたマルケルス2世も5月1日に急死したため、5月23日にコンクラーヴェで妥協案として選出されたカラファは教皇パウルス4世を名乗った。
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