反ベトナム闘争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 10:21 UTC 版)
「キュー・サムファン」の記事における「反ベトナム闘争」の解説
こうしてクメール・ルージュは首都を追われたが、しかし国境地帯に多くの拠点を確保し、ベトナム軍やヘン・サムリン政権にゲリラ戦で対抗した。そして政権時代の「大量虐殺」のイメージを薄める為、サムファンが再び「表の顔」として登場する。1979年12月、人民代表議会、政府、軍、各省の合同大会が開催され、ポル・ポトの後任として民主カンプチアの新首相に選出され、また新たに結成された「カンボジア大民族統一愛国民主戦線」の暫定議長に選出された。 さらに、ベトナムの進出に脅威を抱いたタイを初めとするASEAN諸国、中国、そしてアメリカの後押しにより、反ベトナム三派間の連合を模索した。そこでまず、1981年12月、カンプチア共産党は党中央委員会の決定により、公式に解散した。そして1982年6月22日、シハヌーク派、ソン・サン派、クメール・ルージュの三派による「民主カンプチア連合政府」の樹立協定に調印し、サムファンは外務担当副大統領に就任した。 1980年代末に冷戦が終結し、カンボジア和平の機運が高まると、各種交渉に出席する。1988年7月の「ジャカルタ非公式協議」では交渉決裂し、記者会見でヘン・サムリン政権のフン・セン首相と双方で罵り合った。1990年6月の「東京会議」では、東京に来ながら会議をボイコットした。しかし、同会議では「カンボジア最高国民評議会」 (SNC) 設置案が合意に盛り込まれ、9月にはクメール・ルージュも条件付きで受け入れた。クメール・ルージュからはサムファンとソン・センがSNC構成員として参加した。1991年10月23日、パリ国際会議が開催され、サムファンはSNC構成員の一人として包括和平協定に署名した。
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