千年紀のヨーロッパ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 05:43 UTC 版)
詳細は「1000年」を参照 世界は1000年に終わるという推測は、数名の不安定なフランスの牧師に限られていた。通常の聖職者は、元号(例えばフランスのロベール2世の第4年)を用いた。現在の「AD」の使用は、ベーダ・ヴェネラビリスなどの宇宙史編年史家に限られた。 ヨーロッパは依然として広大なキャラヴァン貿易網のあるイスラームや当時宋の下で世界最大の人口を誇った帝国中国の後塵を拝していた。コンスタンティノープルには約30万人がいたが、ローマは35000人、パリは2万人であった。対してイスラームには当時45万人を擁する世界最大の都市スペインのコルドバから中央アジアに伸びる12を超える大都市があった。ヴァイキングはロシヤを通じてバルト海をコンスタンティノープルに繋ぐ交易路などの北ヨーロッパの交易網があった。しかしコルドバやアレクサンドリア、カイロ、バグダッド、バスラ、メッカのムスリム大都市を繋ぐキャラバン交易路と比べて良いとは言えないものであった。 ヴァイキングに国土のほぼ全域を新たに侵略されながら、イングランドは絶望的な状況に陥っていた。後にイングランドは1002年にデーン人入植者による虐殺により長い苦しみを味わうことになり、イングランドは間もなく独立を回復するが、報復行為と最終的にはデーン人の支配へと発展した(1013年)。しかしキリスト教化は急速に行われ、蛮族の増加という問題の長期的な解決策となった。スカンディナヴィアは暫くして10世紀のデンマークや11世紀のノルウェー、12世紀に僅かに増加した国スウェーデンのように完全にキリスト教の王国になった。キエフ大公国はこの頃に東方正教会に改宗し、ヨーロッパ最大の国として繁栄した。アイスランドとハンガリーは、共に1000年頃にキリスト教国であると宣言した。 ヨーロッパでは正式な結婚制度が創出された。石造建築がなくなることは決してなかったイタリア北部では、石造建築が重要な構造として材木に置き換わろうとしていた。木々の多かったヨーロッパ大陸から木々が失われるということが、進行していた。10世紀はイタリアの都市で人口が倍増するとともに都市生活への回帰が行われた。ロンドンは何世紀にもわたって見捨てられていたが、1000年までに再びイングランドの主要な経済的な中心地になった。1000年までにブルッヘとヘントは、西ヨーロッパへの一時的な経済生活の回帰である城壁の中での通常の交易が行われた。 ヨーロッパの文化では中世の村落(英語版)の興隆や都市生活の再生、ブルジョワジーの出現、最初の大学(英語版)の創立、ローマ法の再発見、自国語による文学の開始といった数点の特徴が、1000年以後暫くして現れた。 1000年、教皇はしっかりとドイツのオットー3世(自称としては「世界の皇帝」)の支配を受けた。しかし後に教会の改革は、最初のアルプスを渡った大規模な石造修道院と公式化された教会法に蓄積されたデクレタル(英語版)のミサの聖職授任であるクリュニー運動としてその独立と威信を高めた。
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