助教諭から体操校長へ(1893-1905)
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「永井道明」の記事における「助教諭から体操校長へ(1893-1905)」の解説
1893年(明治26年)3月に高師を卒業した道明は、4月より高師附属学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)の助教諭兼訓導に着任した。この間、鳩山一郎が生徒として入学し、指導している。博物科出身でありながら博物学の授業を受け持つのは稀で、ほとんど「体操の先生」として奉職した。着任早々、6月から歩兵第1連隊に入営して6週間の兵役を務め、教員復帰後は兵式教練の教官も務めた。この年、道明は政子と結婚している。なお道明卒業直後に嘉納治五郎が高師の校長に就任し、志願者が希望学科を選べるようにしたほか、道明が受けた森有礼以来の軍隊式教育色を排除するなどの改革を推進した。 1896年(明治29年)4月2日、創立したばかりの奈良県尋常中学校畝傍分校(現・奈良県立畝傍高等学校)に赴任し、教諭兼舎監となった。その年の9月30日には全校生徒を引き連れて金剛山への登山に出掛けたが、麓の名柄(現・御所市名柄)に着いた時点で生徒が疲労困憊しているのを発見した。道明は生徒が朝食に茶粥しか食べていないことを知り、保護者に朝食と弁当の栄養改善を訴えた。畝傍分校が畝傍中学校に昇格した1899年(明治32年)には初代校長に就任し、引き続き舎監も務めた。道明校長は修身と体操の教師を務め、毎月遠足や登山を実施し、放課後には教師らとテニス、生徒と器械体操や野球をするという生活を送った。そんなところから、自然発生的に「体操校長」と呼ばれ親しまれた。 1900年(明治33年)、兵庫県の視学官で高師の先輩であった小森慶助の招きに応じて兵庫県姫路中学校(現・兵庫県立姫路西高等学校)に転任し、校長に就任した。この間、姫路中に和辻哲郎が入学している。姫路中では学校の更生を託され、野球を禁止してサッカーや体操を奨励し、生徒が楽しみにしていた修学旅行を廃止して軍隊式の行軍に変更、吹雪の夢前川を渡河する訓練や雨中行軍・雨中運動会を断行するなど「体操校長」の名をより強化した。行軍は生徒から不評で事前に発表すると欠席率が高まることから、抜き打ちで実施していた。和辻は「わたくしの中学が見る見るうちに兵式体操で有名な学校に化してしまった」と表現している。こうした道明の教育は卒業生や元教員、保護者らの反発を受けることとなり、生徒から授業のストライキ(同盟休校)をされたこともあった。しかし時は日露戦争(1904年=明治37年)に向かい挙国一致が求められたため、体操校長の方針は次第に受け入れられ、戦争に動員された教師陣に代わって道明自らが陣頭指揮を執った。腕っぷしの強い生徒は道明に手懐けられて号令係となり、上級生が下級生に鉄拳制裁を加えるという旧習は消滅していった。 1905年(明治38年)春には文部大臣・久保田譲が来校し、道明を激励した。この頃、道明は姫路の練兵場で鍛錬する兵士を眺め、その貧相な体格を何とかせねばと思うようになっていた。こうした折に欧米留学の候補生に選ばれ、1905年(明治38年)11月21日に正式採用となった。採用日には、久保田大臣から直接訓示を受けるという異例の対応があり、国家のために任務を全うしようという強い決意が芽生えた。欧米留学が決まった道明は、和辻哲郎たちが受けていた英語の授業に参加して語学の勉強をしたといい、和辻は「そういうことが極めて無邪気にできる人であった」と記している。
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