加害者Fと被害者Aの出会い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 07:44 UTC 版)
「藤沢市母娘ら5人殺害事件」の記事における「加害者Fと被害者Aの出会い」の解説
Fはかねてから女子高生との交際願望を持っていたが、自宅のある平塚市周辺では自己の非行歴などが知られているため、そのリスクを考慮して茅ヶ崎市方面に目を付け、1981年11月20日夕方には被害者少女A(当時:高校1年生)が在学していた茅ヶ崎高校付近で女子生徒の下校を待った。同日19時ごろ、少女Aは同級生の少女とともに帰宅しようとしていたところ、待ち構えていたFから声をかけられた。Aら2人が「19時(午後7時)」と回答すると、Fは彼女らに「君たちはどこの学校?」などと質問しつつ、「自分は平塚に住む『山田等』(偽名)だ。父親は社長で金持ちだ」「俺と友達になろうよ」と語りかけ、2人から住所・電話番号を尋ねた。この時、同級生は「馴れ馴れしい人」と思いつつ、応対をAに任せ、自身は頑なにに答えなかった一方、Fに専ら対応していた少女Aは自分の名前・自宅の住所・電話番号をメモしてFに渡した。 Fはそれから約1週間後、A宅へ電話を掛けて「どこかへ遊びに行かない」と誘い、2回目の電話で「12月11日(土曜日)に高校近くで待ち合わせる」と約束したが、Aは同級生少女からすっぽかすように忠告されたため、この日は待ち合わせ場所に現れなかった。しかしFは再び電話を掛け、12月15日に改めて辻堂駅前で待ち合わせすることを提案し、この時はAも約束通り辻堂駅でFと待ち合わせた。同日、2人は東海道線で熱海駅(静岡県熱海市)まで行き、熱海後楽園ゆうえんちのレストランで食事をしたり、ゲームを楽しんだりした。 一方でAは当時、以前から好意を寄せていた同級生の男子生徒がいた。また、AにとってFは「ゲーム機の操作は上手いが話題性に乏しい」ことに加え、A自身が「Fが本当に心を寄せていたのは初対面の時、自分と一緒にいた同級生少女だ」と勘づいていたため、Aにとってはあまり楽しい雰囲気ではなかった。そのため、Aは1981年12月中旬ごろからはFとの交際を望まなくなった。茅ヶ崎高校が冬休みに入った同年12月27日夕方、FはAの好みだったイギリス人グループのカセットテープを持参し、バイクでA宅を訪問した。Fは当時、Aの心境の変化を知らず、「Aは喜んで迎え入れてくれる」と考えていたが、当時は父親Dが在宅していたため、Aは「Fは両親に会わせてはならない人物だ」と判断し、自宅からやや離れた路上で「なんで急に来るのよ!」と責めた。これに対し、FはAにカセットテープを差し出したり、「この辺を散歩しよう」と持ち掛けたりしたが、「今日はダメ」と拒否された。 12月31日(大晦日)、Fは改めて電話でAと打ち合わせた上で、Aと辻堂駅南口で会い「俺と付き合ってほしい」と告白したが、Aはかねてから好意を寄せていた同級生男子生徒へ惹きつけられていたため、Fにその男子生徒の存在・名前を挙げつつ「好きな人がいるからダメ」と拒絶した。FはなおAに交際を求めたが、Aは執拗に詰め寄るFに辟易し、「私に『付き合ってほしい』だなんて10年早い」「あんたなんか、ガキみたいでダサいし不潔だから嫌」と拒絶した。Aがこのような冷淡な態度を取った理由は、「Fは自分と同い年程度だろう」と思い込んでいたためだが、この言葉はFにとって「侮辱された」と受け取れるような言葉だった。1982年1月5日、Fは前回の会話でAが思わず同級生男子生徒の名前を明かしたことを利用してAに電話を掛け、「俺はあいつ(同級生男子)の名前だけでなく、出身中学を知っている」と述べた。Fはその後も数日間にわたり、Aの両親が出勤している昼間にA宅へ電話を掛け、同年1月12日にはAが在学していた茅ヶ崎高校へ「Aの従兄」を名乗って電話を掛け、「Aのクラスにいる(前述の)同級生男子生徒の件」に関して聞き出そうとしたが、その電話をきっかけにAは明確にFを拒絶するようになったほか、Aへの電話が不審な内容ばかりだったため、応対していた事務職員もAに電話を取り継がなかった。Aはこのころには「名前と電話番号を教えなければよかった」と後悔し、知人に「Fは名前・年齢がコロコロ変わるから、どれが本名なのかわからない」とも漏らしていた。
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