劉備への帰服
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建安19年(214年)、馬超は益州の劉璋を成都に包囲していた劉備に密書を送り、降伏を申し入れた。馬超は妻子や部下を漢中に置き去りにして出奔した。 劉備は馬超の来降を聞くと、すぐさま使者を送り馬超の軍兵を迎えとらせた。馬超が劉備に帰順したという噂に恐れをなした劉璋は程なく降伏し、蜀は劉備の手中に入った。馬超は劉備により平西将軍に任命され、臨沮を治め、都亭侯に再び封じられた。 自尊心の強かった関羽は、馬超が誰に比肩するかを諸葛亮に書簡で問うたが、関羽の性格を知っていた諸葛亮が「彼は張飛殿に比肩しますが、髯殿には及びません」と述べたので喜んだという。 彭羕は、その野心を警戒した諸葛亮が劉備に密告した為に、左遷されることとなった。彭羕は左遷される前に馬超を訪問すると、劉備を批判した後、「君が外で兵を挙げ、私が内を取り持てば、天下は思いのままである」と馬超に反乱を持ちかけた。流浪の末に帰順した馬超は、自分の身を危惧していたのでこの言葉を受け入れず、彭羕が帰るとその言葉を上表したため、彭羕は処刑された(『三国志』蜀志「彭羕伝」)。 建安22年(217年)、馬超は劉備の漢中攻略戦に従軍し、下弁方面での作戦に張飛・呉蘭・雷銅らと共に参加したが、曹洪・曹休らに阻まれ、目だった戦果をあげることなく撤退した(『三国志』魏志「武帝紀」及び「諸夏侯曹伝」)。 建安24年(219年)、劉備を漢中王に推挙した群臣たちの筆頭に馬超の名がある(『三国志』蜀志「先主伝」)。馬超は仮節・左将軍に任命された。 章武元年(221年)には驃騎将軍・涼州牧となるが、章武2年(222年)、47歳で亡くなり、子の馬承が後を嗣いだ。 没する間際、馬超は「私の一門宗族200人余りは曹操めにあらかた殺されてしまいましたが、まだ従弟の馬岱が残っております。彼を途絶えんとしている宗家の祭祀を継承する者として託します。くれぐれも宜しくお願い致します」と、劉備に上疏している。 景耀3年(260年)、威侯の諡号を送られた。
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