劉備への帰服とは? わかりやすく解説

劉備への帰服

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 16:52 UTC 版)

馬超」の記事における「劉備への帰服」の解説

建安19年214年)、馬超益州劉璋成都包囲していた劉備密書送り降伏申し入れた馬超妻子部下漢中置き去りにして出奔した劉備馬超来降聞くと、すぐさま使者送り馬超軍兵迎えとらせた馬超劉備帰順したという噂に恐れをなした劉璋程なく降伏し、蜀は劉備の手中に入った馬超劉備により平西将軍任命され臨沮治め、都亭侯に再び封じられた。 自尊心強かった関羽は、馬超が誰に比肩するかを諸葛亮書簡で問うたが、関羽性格知っていた諸葛亮が「彼は張飛殿に比肩しますが、髯殿には及びません」と述べたので喜んだという。 彭羕は、その野心警戒した諸葛亮劉備密告した為に左遷されることとなった彭羕左遷され前に馬超訪問すると、劉備批判した後、「君が外で兵を挙げ、私が内を取り持てば、天下思いのままである」と馬超反乱持ちかけた。流浪の末に帰順した馬超は、自分の身を危惧していたのでこの言葉受け入れず彭羕帰るとその言葉上表したため彭羕処刑された(『三国志』蜀志彭羕伝」)。 建安22年217年)、馬超劉備漢中攻略戦従軍し下弁方面での作戦張飛呉蘭雷銅と共に参加したが、曹洪曹休らに阻まれ、目だった戦果をあげることなく撤退した『三国志』魏志武帝紀」及び「諸夏侯曹伝」)。 建安24年219年)、劉備漢中王推挙した群臣たちの筆頭馬超名がある『三国志』蜀志先主伝」)。馬超は仮節・左将軍任命された。 章武元年221年)には驃騎将軍涼州牧となるが、章武2年222年)、47歳亡くなり、子の馬承が後を嗣いだ。 没する間際馬超は「私の一門宗族200余り曹操めにあらかた殺されしまいましたが、まだ従弟馬岱残っております。彼を途絶えんとしている宗家祭祀継承する者として託しますくれぐれも宜しお願い致します」と、劉備上疏している。 景耀3年260年)、威侯の諡号送られた。

※この「劉備への帰服」の解説は、「馬超」の解説の一部です。
「劉備への帰服」を含む「馬超」の記事については、「馬超」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「劉備への帰服」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「劉備への帰服」の関連用語

1
4% |||||

劉備への帰服のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



劉備への帰服のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの馬超 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS