前身の映画館
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/09 14:44 UTC 版)
名称の変遷 福知山第一映画→福知山第一映画劇場→東宝第一映画劇場→福知山東宝劇場→福知山東宝劇場・福知山スカラ座 1953年の福知山には、松竹座(東中ノ町)、福知山第一日活館(東中ノ町)、福知山第二日活館(東中ノ町)の3館が存在。1960年には福知山松竹、福知山外映劇場(東中ノ町)、福知山駅前東映(福知山駅前)、福知山第一映画(中ノ町)の4館が存在し、いずれも500席から700席程度の座席を有した。1960年代後半には福知山外映劇場が閉館し、1970年には福知山松竹座、福知山駅前東映劇場、福知山第一映画劇場の3館が存在。1970年代には福知山松竹座が閉館し、1979年には福知山駅前東映、福知山東宝第一劇場の2館が存在。1982年頃に福知山駅前東映が閉館し、福知山の映画館は東宝第一映画劇場の1館のみとなった。1986年頃には福知山東宝劇場と同じ建物・同じフロアに福知山スカラ座が開館し、邦画は福知山東宝劇場、洋画は福知山スカラ座ですみ分けられた。2006年2月、運営会社の関西共栄興行は福知山東宝劇場と福知山スカラ座を休館させた。
※この「前身の映画館」の解説は、「福知山シネマ」の解説の一部です。
「前身の映画館」を含む「福知山シネマ」の記事については、「福知山シネマ」の概要を参照ください。
前身の映画館
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/19 07:23 UTC 版)
2000年の津市の映画館(4館)津東映シネマ1(八町1-1-3) →2001年12月閉館 津東映シネマ2(八町1-1-3) 津東宝劇場(大門32-3) →2001年4月9日閉館 津スカラ座(南丸之内12-25) →2001年1月21日閉館 1898年(明治31年)に津市大門の津観音境内に開館した芝居小屋の曙座は、大正時代に芝居小屋から映画館に改装した。太平洋戦争後の1950年(昭和25年)頃には曙座が西300メートルの地点に移転し、跡地の建物は第一劇場に改称された。第一劇場は1957年(昭和32年)に津観音仲見世通りの現在地に移転した。 1958年(昭和33年)には第一劇場が津東宝劇場に改称し、1966年(昭和41年)には小林賢司が先代の跡を継いで支配人となった。三重県の県庁所在地である津市の中心部には最盛期に10館の映画館があったが、家庭へのテレビの普及などもあって閉館が相次ぎ、1989年(平成元年)の三重県の従来型映画館は21館にまで減少していた。 2000年(平成12年)12月15日に7スクリーンを有するワーナー・マイカル・シネマズ津(現:イオンシネマ津)が開館すると、2001年(平成13年)4月9日には津東宝劇場が45年の歴史に幕を閉じて閉館した。2001年(平成13年)1月21日には近鉄名古屋線津新町駅近くの津スカラ座も、同年12月には津新町駅前の津東映シネマも閉館している。津東宝劇場の閉館によって繁華街の大門から映画館がなくなった。
※この「前身の映画館」の解説は、「津大門シネマ」の解説の一部です。
「前身の映画館」を含む「津大門シネマ」の記事については、「津大門シネマ」の概要を参照ください。
前身の映画館
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/19 13:21 UTC 版)
昭和30年代の広島市には50以上の映画館が点在していたが、テレビの普及などによって相次いで閉館した。福屋八丁堀本店東館がある場所には、2008年まで100年近くにわたって松竹系の映画館が存在した。1916年に日本館が開館し、1950年12月に改築して東洋座と改称。座席数は1,000席程度であり、美空ひばりなどの歌謡ショーが行われた時期もあった。1950年代前半に松竹の封切館となり、『男はつらいよ』シリーズなど数々のヒット作を上映した。1950年代後半に松竹東洋座に改称し、この時期の建物は福屋八丁堀東館の建設が始まる1972年11月まで使用された。1972年以後の閉館期間中は、広島スカラ座が松竹の封切館業務を行った。 東館全面開店に先駆けた1975年4月26日、東館8階に松竹系封切館の松竹東洋座と独立系封切館の広島名画座が設けられた。松竹東洋座は広島県内唯一の松竹系映画館だったが、2008年4月30日に閉館した。この後は広島バルト11と109シネマズ広島が松竹系の作品上映を行っている。今後、2025年春には松竹マルチプレックスシアターズ運営のシネマコンプレックスが広島駅ビルASSE建替え後の新駅ビルに出店を予定。県内の松竹系映画館の事実上の復活である。
※この「前身の映画館」の解説は、「八丁座」の解説の一部です。
「前身の映画館」を含む「八丁座」の記事については、「八丁座」の概要を参照ください。
前身の映画館
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 14:04 UTC 版)
映劇大要の所在地 前身は1919年(大正8年)に開館した丸山館であり、昭和戦前には船江館(1924年-1928年)、富士館(1928年-????年)、銀線館(????年-1940年)、新興映画劇場(1940年-)と名称の変動が激しかった。1928年(昭和3年)に小林平八郎が館主を務めるこんぴら館が火災で焼失すると、小林は船江館を買収し、富士館に改称して嵐寛寿郎主演の『鞍馬天狗』シリーズなどを上映した。 この劇場は太平洋戦争後にサン劇場と改称し、洋画の封切館となった。1950年(昭和25年)には西厩島の花月劇場と共同で上映作品案内を発行し始め、その第1号ではイギリス映画『赤い靴』が特集されている。1955年(昭和30年)の正月にはエヴァ・ガードナーとハンフリー・ボガートが共演した『裸足の伯爵夫人』を上映し、当選者を松竹大船撮影所に招待するクイズを新潟日報に掲載している。 1956年(昭和31年)には邦画の二番館となった。1958年(昭和33年)には新潟日報の映画案内からサン劇場が消えたが、1959年(昭和34年)5月12日から1961年(昭和36年)半ばにはヌードショーの実演を行う劇場として掲載されていた。その後は再び新潟日報の映画案内に掲載されなくなった。
※この「前身の映画館」の解説は、「映劇大要」の解説の一部です。
「前身の映画館」を含む「映劇大要」の記事については、「映劇大要」の概要を参照ください。
- 前身の映画館のページへのリンク