出生から作家デビューまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/02 03:23 UTC 版)
「セルマ・ラーゲルレーヴ」の記事における「出生から作家デビューまで」の解説
1858年11月20日、ノルウェーとの国境に近いヴェルムランド地方のスンネにある邸宅モールバッカに、退役軍人のエリック・グスタフ・ラーゲルレーヴ (Erik Gustaf Lagerlöf) とルイーセ・ラーゲルレーヴ (Louise Lagerlöf、旧姓 (Wallroth) の6人の子供の5番目として生まれた。母方は素封家で祖父は鍛治場を経営する裕福な商人だった。 郷里のヴェルムランド地方は農業や馬の生産、製鉄、炭焼き、林業などの盛んな地域で、詩人エサイアス・テグネル(英語版)や歴史学者エリック・グスタフ・イェイイェル(英語版)も輩出している。ラーゲルレーヴ家は、大農場と鍛冶場を所有し、テグネルやイェイイェルとも親戚筋にあたる名家であった。幼少時は股関節形成不全で戸外の遊びができず、文学好きの父や民間伝承に詳しい祖母の影響で、詩作と読書の好きな少女に成長していく。 学校制度がまだ整わないスウェーデンでは(1880年代まで4年制)、裕福な家庭は子どもを通学させる代わりに家庭教師をつけており、ラーゲルレーヴ家でもモールバッカに招いた教師から初等教育と英語、フランス語を学ばせる。ラーゲルレーヴは7歳で初めてアメリカの小説『Osceola』(メイン・リード著)を読み切り、大人になったら小説家になりたいと思ったという。聖書は10歳で通読した。 スウェーデンでは1870年代に急速な近代化が興り、それに伴ってラーゲルレーヴ家は短時日に零落していく。 ラーゲルレーヴは自立のため、24歳になる1882年に父の反対を押し切ってストックホルムの高等師範学校に入学し、1885年にスウェーデン南部のランズクルーナで女子校の教師として働き始める。 1885年、父のエリック・グスタフ・ラーゲルレーヴがアルコール使用障害で死去すると、1888年に生家を競売にかけて手放した。長兄のダニエル(Daniel Lagerlöf)はすでに医者となって家を出ており、相続人の次兄ヨハン (Johan Lagerlöf) はアメリカに移民した。結婚し子供をもうけた姉のアンナ (Anna) を結核で亡くしている。幼い頃から一番仲の良かった妹イェルダとは、妹の結婚後も頻繁に行き来した。 ラーゲルレーヴは教師を務める傍ら、詩や短編小説を雑誌の懸賞に投稿していた。1890年に短編が雑誌『イドゥン』の懸賞に入選、女性解放運動家のソフィー・アドレルスパッレ男爵夫人から受けた支援のおかげで教職を1年間休むと、『イェスタ・ベルリングのサガ(英語版)』を書き上げて翌1891年に刊行した。 当時の北欧では、アウグスト・ストリンドベリやヘンリック・イプセンなどに代表される「80年代文学」(自然主義文学)を批判する動きがあり、ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェやオーストリアの精神科医ジークムント・フロイトの影響で、精神や魂、過去など、目に見えないものを重視するようになっていた。1820年代の郷里を民話に似せ幻想的に描いたデビュー作『イェスタ・ベルリングのサガ』は「90年代文学」(新ロマン主義文学)の代表的な作品となり、40ヶ国語以上に翻訳された。 そのきっかけはデンマーク語版に訳され、影響力のある男性書評家 Georg Brandes に着目されたことである。ストックホルムで芸術サロンを開き文芸活動を支えていたフレデリカ・リムネル(en)は、作家専業で進めるようにと援助を申し出る。
※この「出生から作家デビューまで」の解説は、「セルマ・ラーゲルレーヴ」の解説の一部です。
「出生から作家デビューまで」を含む「セルマ・ラーゲルレーヴ」の記事については、「セルマ・ラーゲルレーヴ」の概要を参照ください。
- 出生から作家デビューまでのページへのリンク