出生から元服
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長禄3年(1459年)8月、父が越前・遠江守護代甲斐常治との対立で8代将軍足利義政の怒りに触れ(長禄合戦を参照)、越前・尾張・遠江3ヶ国の守護職を奪われ周防の大内教弘の許へ隠退すると、甲斐氏らにより擁立され、僅か3歳の松王丸(後の義寛)が斯波氏(武衛家)家督と3ヶ国守護職を継ぐ。ところが2年後の寛正2年(1461年)8月2日に義政から当主の座を廃されると、松王丸は相国寺の季瓊真蘂に稚児として預けられ、寛正4年(1463年)11月19日に出家させられて宗成という法名を与えられた(『蔭涼軒日録』)。次の当主には遠縁にあたる渋川義鏡の子義廉が据えられた。 この廃立には有力家臣朝倉孝景の裏工作があったと言われているが、孝景は義敏の失脚後に遠江で一揆が発生した為、長禄4年(1460年)に甲斐敏光と共に遠江に出兵、関東に移り、寛正2年10月の義廉と義政の対面に同席するまで京都に不在だった為に否定的な説もある。また、関東の幕府出先機関の堀越公方足利政知の軍事力増強の狙いもあったとされる。 文正元年(1466年)7月、父が義政から赦免され武衛家当主として復権すると、松王丸もそれに伴い還俗し武衛家世嗣に復した。しかし間もなく文正の政変が起こると、父と伊勢貞親・季瓊真蘂らと共に再び失脚し、家督は義廉に戻されてしまった。翌文正2年(1467年)1月21日には京都に残っていた松王丸は祖父斯波持種及び叔父の竹王丸とともに義廉によって襲撃され(『後法興院記』)、京都を脱出して尾張国に逃れた。 勃発した応仁の乱では一貫して東軍に属している。この間、将軍義政の陣営である東軍に属したことによって応仁2年(1468年)には早くも武衛家家督と3ヶ国守護職が義敏・松王丸父子へ再還付された(但し、西軍内ではなおも義廉が武衛家家督と3ヶ国守護職に留まる)。なお、この年の9月8日には幕府(東軍)の奉行人から尾張の武士である飯尾弥三郎に対して松王丸とともに同国の西軍・義廉方を攻めるように命じる内容の奉書が出されており、越前にて義廉方と戦っていた父・義敏とは別に尾張にいたとみられている。 文明4年(1472年)12月23日、武衛家御曹司の常として公家の儀式によって元服し、将軍義政の偏諱を賜って『義良』と名乗り従五位下治部大輔に任じられる。
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