出生から元服とは? わかりやすく解説

出生から元服

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 06:29 UTC 版)

斯波義寛」の記事における「出生から元服」の解説

長禄3年1459年8月、父が越前遠江守護代甲斐常治との対立8代将軍足利義政怒り触れ長禄合戦参照)、越前尾張遠江3ヶ国の守護職を奪われ周防大内教弘の許へ隠退すると、甲斐氏らにより擁立され、僅か3歳松王丸(後の義寛)が斯波氏武衛家)家督と3ヶ国守護職を継ぐ。ところが2年後寛正2年1461年8月2日義政から当主の座を廃されると、松王丸相国寺季瓊真蘂稚児として預けられ寛正4年1463年11月19日出家させられて宗成という法名与えられた(『蔭涼軒日録』)。次の当主には遠縁にあたる渋川義鏡の子義廉が据えられた。 この廃立には有力家臣朝倉孝景の裏工作があったと言われているが、孝景は義敏の失脚後遠江一揆発生した為、長禄4年1460年)に甲斐敏光と共に遠江出兵関東移り寛正2年10月の義廉と義政対面同席するまで京都不在だった為に否定的な説もある。また、関東幕府出先機関堀越公方足利政知軍事力増強狙いもあったとされる文正元年1466年7月、父が義政から赦免され武衛家当主として復権すると、松王丸それに伴い還俗し武衛家世嗣に復した。しかし間もなく文正の政変が起こると、父と伊勢貞親季瓊真蘂と共に再び失脚し家督は義廉に戻されてしまった。翌文正2年1467年1月21日には京都残っていた松王丸祖父斯波持種及び叔父竹王とともに義廉によって襲撃され(『後法興院記』)、京都脱出して尾張国逃れた勃発した応仁の乱では一貫して東軍属している。この間将軍義政陣営である東軍属したことによって応仁2年1468年)には早くも武衛家家督と3ヶ国守護職が義敏・松王丸父子へ再還付された(但し、西軍内ではなおも義廉が武衛家家督と3ヶ国守護職に留まる)。なお、この年9月8日には幕府東軍)の奉行人から尾張武士である飯尾弥三郎に対して松王丸とともに同国西軍・義廉方を攻めるように命じ内容奉書出されており、越前にて義廉方と戦っていた父・義敏とは別に尾張にいたとみられている。 文明4年1472年12月23日武衛御曹司の常として公家儀式によって元服し将軍義政偏諱を賜って『義良』と名乗り従五位下治部大輔任じられる

※この「出生から元服」の解説は、「斯波義寛」の解説の一部です。
「出生から元服」を含む「斯波義寛」の記事については、「斯波義寛」の概要を参照ください。

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