武衛家当主としてとは? わかりやすく解説

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武衛家当主として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 06:30 UTC 版)

斯波義淳」の記事における「武衛家当主として」の解説

応永25年1418年8月に父が死去したため、その後襲って越前尾張遠江守護に任ぜられ、左兵衛佐に官を進めた以後は武衛家当主としての活動始まり応永27年1420年5月から6月にかけては当時滞京であった朝鮮使節宋希璟応接義持より命じられ応永28年1421年4月行われた国母日野西資子光範門院)の熊野参詣では伏見稲荷においてこれを接待し、同年12月には将軍義持より命じられ田楽沙汰するなどの動向見られる(『看聞日記』)。 応永32年1425年2月将軍義量没すると、伏見宮貞成親王の『看聞日記』ではそれに前後して将軍家断絶仄めかす怪異続いたとされる。その中には武衛邸に「将軍」の銘が刻まれた兜が天から降り、義淳が将軍家継承する噂されたものもあったという。 義量没後、しばらくは前将軍義持政務執り行っていたが、応永35年1428年1月7日俄に発病した義持日々病状悪化させ、毎年恒例であった同月12日行われる武衛渡御中止となるほどであった同月17日には危篤態となり、義淳をはじめとして管領畠山満家主だった幕閣たちは、室町殿護持僧として信任厚かった満済のもとへ集結して後継者について協議しついには義持の弟達(青蓮院門跡義円梶井門跡義承大覚寺門跡義昭相国寺虎山永隆)の中から籤引きによって後継者選定する事を決した結局義持明朝には死去したため、19日石清水八幡宮にて籤引き行った結果青蓮院門跡であった義円将軍家後継者となり、還俗および元服して足利義宣、さらに義教と名を改め室町幕府6代将軍就任した実際に就任したのは正長2年)。 同年改元して正長元年8月、義淳は義教によって新たに飛騨大野郡小八賀と尾張丹羽郡松竹の2ヶ所を所領としてそれぞれ与えられている。

※この「武衛家当主として」の解説は、「斯波義淳」の解説の一部です。
「武衛家当主として」を含む「斯波義淳」の記事については、「斯波義淳」の概要を参照ください。

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