武衛家当主として
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応永25年(1418年)8月に父が死去したため、その後を襲って越前・尾張・遠江の守護に任ぜられ、左兵衛佐に官を進めた。以後は武衛家当主としての活動が始まり、応永27年(1420年)5月から6月にかけては当時滞京中であった朝鮮使節の宋希璟の応接を義持より命じられ、応永28年(1421年)4月に行われた国母日野西資子(光範門院)の熊野参詣では伏見稲荷においてこれを接待し、同年12月には将軍義持より命じられ田楽を沙汰するなどの動向が見られる(『看聞日記』)。 応永32年(1425年)2月に将軍義量が没すると、伏見宮貞成親王の『看聞日記』ではそれに前後して将軍家断絶を仄めかす怪異が続いたとされる。その中には武衛邸に「将軍」の銘が刻まれた兜が天から降り、義淳が将軍家を継承すると噂されたものもあったという。 義量の没後、しばらくは前将軍の義持が政務を執り行っていたが、応永35年(1428年)1月7日、俄に発病した義持は日々病状を悪化させ、毎年の恒例であった同月12日に行われる武衛邸渡御も中止となるほどであった。同月17日には危篤状態となり、義淳をはじめとして管領畠山満家ら主だった幕閣たちは、室町殿の護持僧として信任の厚かった満済のもとへ集結して後継者について協議し、ついには義持の弟達(青蓮院門跡義円・梶井門跡義承・大覚寺門跡義昭・相国寺虎山永隆)の中から籤引きによって後継者を選定する事を決した。結局、義持は明朝には死去したため、19日に石清水八幡宮にて籤引きを行った結果、青蓮院門跡であった義円が将軍家の後継者となり、還俗および元服して足利義宣、さらに義教と名を改め、室町幕府第6代将軍に就任した(実際に就任したのは正長2年)。 同年(改元して正長元年)8月、義淳は義教によって新たに飛騨大野郡小八賀と尾張丹羽郡松竹の2ヶ所を所領としてそれぞれ与えられている。
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