武衛家相続と甲斐常治との対立
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「斯波義敏」の記事における「武衛家相続と甲斐常治との対立」の解説
永享7年(1435年)、斯波一門の大野持種(斯波持種)の嫡男として誕生する。宝徳3年(1451年)12月12日に元服が行われた(『康富記』)。この頃、斯波本家である武衛家では当主の早世が相次ぎ、一門筆頭格の大野持種と、重臣筆頭格の甲斐常治(執事、越前・遠江守護代)が幼主の斯波義健を後見していた。しかし持種と常治は相容れず、主導権を巡って対立状況にあった。 享徳元年(1452年)9月、当主の義健が18歳で死去して嗣子が無かったため、義健と同年齢の義敏が室町幕府及び重臣に推されて武衛家の家督と越前・尾張・遠江守護を継承し、従五位下左兵衛佐に任官した。これにより、一門筆頭(斯波持種)と家臣筆頭(甲斐常治)の対立は、主従(義敏対常治)の争いに発展した。義敏は常治と元から折り合いが悪く、義敏が常治の弟を登用しようとしたり、主家をないがしろにする常治の排除を企てていたともいわれる。分国越前で支配権を掌握する甲斐派を排除したい越前国人と権力回復を目論む義敏が結びつき、常治との権力闘争が生じたという面もあった。
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