武衛家相続と甲斐常治との対立とは? わかりやすく解説

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武衛家相続と甲斐常治との対立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/10 10:15 UTC 版)

斯波義敏」の記事における「武衛家相続と甲斐常治との対立」の解説

永享7年1435年)、斯波一門大野持種(斯波持種)の嫡男として誕生する宝徳3年1451年12月12日元服が行われた(『康富記』)。この頃斯波本家である武衛家では当主早世が相次ぎ一門筆頭格大野持種と、重臣筆頭格甲斐常治執事越前遠江守護代)が幼主斯波義健後見していた。しかし持種と常治は相容れず、主導権巡って対立状況にあった享徳元年1452年9月当主の義健が18歳死去して嗣子無かったため、義健と同年齢の義敏が室町幕府及び重臣推され武衛家の家督越前尾張遠江守護を継承し従五位下左兵衛佐任官した。これにより、一門筆頭斯波持種)と家臣筆頭甲斐常治)の対立は、主従(義敏対常治)の争い発展した。義敏は常治と元から折り合い悪く、義敏が常治の弟を登用しようとしたり、主家ないがしろにする常治の排除企てていたともいわれる分国越前支配権掌握する甲斐派を排除した越前国人と権力回復目論む義敏が結びつき、常治との権力闘争生じたという面もあった。

※この「武衛家相続と甲斐常治との対立」の解説は、「斯波義敏」の解説の一部です。
「武衛家相続と甲斐常治との対立」を含む「斯波義敏」の記事については、「斯波義敏」の概要を参照ください。

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