出生から伊那郡代へとは? わかりやすく解説

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出生から伊那郡代へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 06:38 UTC 版)

秋山虎繁」の記事における「出生から伊那郡代へ」の解説

甲斐国志によれば、父は秋山信任新左衛門とされるが、「信」は武田家通字であるため、『国志』の記す虎繁の父親の実名に関して疑問視されている。 確実な初見史料天文18年1549年5月とされ、左近親兵衛尉対し一月に馬三匹文の分国諸関諸役免許与えた武田氏朱印状奏者として見られる。 『高白斎記によれば天文22年1553年4月落城した信濃国葛尾城長野県坂城町)に在城して戦後処理を担当し御一門衆武田信繁が虎繁に対して上意伝達している。 虎繁は大嶋城長野県松川町)の城代務め信濃国のうち伊奈郡の守備任されたという。『甲陽軍鑑によれば、虎繁ははじめ高遠城伊那市高遠町)で「上伊奈郡代」(郡司であったが、永禄5年1562年)に信玄四男の諏方武田)勝頼が高遠城となると飯田城長野県飯田市)へ移ったという。ただし、虎繁が高遠城に在城した痕跡見られないことが指摘される。 年未詳8月18日武田晴信書状において、信濃大嶋城に在城していた室住虎光豊後守)と「秋山右衛門尉」が、美濃国斎藤道三国境付近において軍勢動かした際に、大嶋城において情勢を晴信に報告し、晴信から指示与えられている。同文書は永禄4年1561年)の川中島の戦い戦死している室住虎光没年から永禄初年頃、あるいは弘治元年1555年)に推定されており、「秋山右衛門尉」は虎繁を指すと考えられている。なお、この時には美濃の国衆・遠山氏支援のため美濃苗木城岐阜県中津川市)に在番していた可能性指摘される。 これ以後大嶋城在番続け永禄2年1559年12月には伊奈郡の春近衆・赤須為の所領紛争の解決などに携わっている。虎繁は主に伊奈郡において美濃遠江三河方面軍事・外交携わっており、『甲陽軍鑑』では虎繁を「伊奈郡代」としている。 永禄2年から永禄8年1565年)頃に受領名伯耆守」を受ける。同年には尾張国織田信長との同盟交渉においては取次務める。永禄11年1568年)には岐阜赴いたという(『甲陽軍鑑』)。なお、「秋山右衛門尉」と「秋山伯耆守」は活動時期から同一人物であると推定されており、後に織田信長打ちとった敵将攻略した城郭記した信長公御一代合戦之覚」(徳川林政史研究所所蔵古案)では、長篠合戦以前に、虎繁を指していると考えられている「秋山右衛門」の名が見られる

※この「出生から伊那郡代へ」の解説は、「秋山虎繁」の解説の一部です。
「出生から伊那郡代へ」を含む「秋山虎繁」の記事については、「秋山虎繁」の概要を参照ください。

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